5月 13th, 2010

 東京から新幹線に乗って盛岡へゆく道すがら、——ふと居眠りをした隙に、桜前線を追い抜いていた。たぶん仙台の辺りであったように思います。4月の下旬。気付いたら、先ほどまでちらほらと見えていた薄紅色は車窓から消え、寒々とした冬枯れの風景が広がっていました。
 盛岡駅におりたつと、空気はぴんと冷えていて、深呼吸するとそのつめたさが肺にしみてきました。盛岡は雨。市内の桜の梢には堅いつぼみが閑かに光っていました。霧雨のなか、磨き抜かれたような黒い枝の先にぴかぴかと。 裁判所のまえにある「石割桜」は、樹齢は360年を越えるそうです。本当に、巨大な花崗岩を割るようにして荘厳と生えています。その姿はどこか神話的で、街なかに不意に出現した神さまの化身のようでもあります。昭和七年に裁判所が火災に遭った際、北側の一部が焼けたそうですが、翌春には再び花を咲かせたとか。例年、アスファルトの照り返しのせいで市内の他の桜より少しばかり早咲きらしいのですが、やっぱり花は一つもひらいておりません。
 まだ堅いつぼみを見上げながら、花を待つ時間はいいものだなぁ、と思いました。そういう時間が、本当は一番素敵なのかもしれないな・・・と。
 文明がいくら進歩しても、人間は桜の花をつくることはできません。花を準備し、咲かせるのは桜の木。けれどもこうして桜の下で佇みながら、花を待ちながら、密かに空想の花を咲かせて満開になった桜の様子を想像してみることはできるのです。

開花を待つ石割桜(写真は資料映像/2007年撮影)

 さくら。
 今年は東京で満開の桜を見ました。つぼみがふくらんでから咲くまでに、だいぶ時間がかかりました。桜にとっては苦難の年だったのかもしれません。猛烈な寒さと暴風が、今にも咲きはじめそうな柔らかいつぼみをおそいました。夜中じゅうガタピシゴウゴウと鳴っている窓の傍で、ああ、これでもう今年の桜はだめになるのかもしれない、そう思っていたら翌朝、桜のつぼみは何事もなかったかのように枝に残っていました。残っていたどころか、ひとつも落ちた気配がないのでした。あの悪天候のなかを、逞しくもじっと耐え忍んだのです。・・・思えば、桜は私が生まれる前からずっとここに生えていた。この場所がどんな風の通り道になるのかとかいうことなどはとうに知り尽くしていて、地勢に合ったように根を伸ばし枝をはっているのでしょう。たまたま傍を通りかかった私などが感心することのほうがおこがましいのです。毎年、平然と咲く花は、その色も形も香りも、すべてが人知の及ばない仕組みのなかで生まれているのです。人は、ただ開いた花の下でうっとりと溜息をつくことができるだけ。

 さくら さくら 弥生の空は 見わたすかぎり 
    霞か雲か 匂ひぞ出づる 
      いざや いざや 見に行かん

 気を揉んでいたせいか、ようやく花が咲きそろったときの嬉しさは格別で、お花見にも熱がはいりました。満開の桜の木漏れ日の下、お弁当をひろげ、ビールをあける楽しさ。桜の下では、人の顔も明るくほころんでしまうものです。

開花を迎えた石割桜(写真は資料映像/2007年撮影)

 坂口安吾に『桜の森の満開の下』という短編があります。これは、背筋の寒くなるような、たいへん不気味な作品なのですけれども、どういうわけか私は、春になると読みたくなります。今年は、桜の下で読みました。これを読むと、桜の下がなにやら恐ろしい場所に思えてきます。ひっそり人気ない山奥で満開になった桜の下などは閑かすぎるほど閑かで、なるほど怖ろしいものなのでしょう。そう思って眺めると、お花見でどんちゃん騒ぎをする人の様子が、桜のはかなさと怖ろしさに抵抗を試みているようにも見えて、なんだかまた奇妙な趣きがあるのでした。

 さて、ゴールデンウィーク明けの、五月。
 ふたたび盛岡へ参りました。今度こそ、満開の桜が見られるかもしれない。そう期待していましたが、新幹線が桜前線に追いつくことはありませんでした。北へ北へ追いかけても、それはもう過ぎ去ってしまっていました。盛岡の桜は、ひらひらと花弁を風に舞わせ、薄緑色の葉っぱをいっぱいに吹きだしていました。
 たった二週間の間に、盛岡の風景は一変していました。岩手山の雪もだいぶとけて、険しかった山の風情が穏やかになりました。私の見ていなかった間に、色のなかった桜の梢はいっせいに薄紅色の花をまとい、それを落として今度はすっかり緑色に変わってしまったのです。
 盛岡で満開の桜が見られなかったのは、残念なこと。でも、本当の意味では、幸運だったのかもしれない、そんなふうにも思います。

 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
 雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀に情ふかし。
 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。


 『徒然草』の、有名な段。「桜の花は盛りだけを、月は曇りなく照りわたっているのだけを見るものではない」と。
 私が盛岡で巡りあった時間、————桜の下で、堅いつぼみを見上げながら花を待ち遠しく思う時間、満開になったらどんなだろうかと思いめぐらす時間、そして、残り少ない花弁が風に散っていくのをそわそわと見守る時間——が、ほんとうは尊いのかもしれません。
 こうして桜が咲く度に、散るたびに、心を動かされるのは、日本という風土に日本人として暮らしていることの幸せ。四季の移ろいのなかで、古来より日本人は心を動かしてきました。われわれの文化の神髄は、自然の営みに呼応した、幽かで、透明な、心の動きのなかにあったのではないでしょうか。

 6月、緑が濃くなる季節、ふたたび岩手へ旅する予定です!
 どんな風景に出逢えるのか、とても楽しみです。

満開の石割桜(写真は資料映像/2007年撮影)

This entry was posted on 木曜日, 5月 13th, 2010 at 2:01 PM and is filed under 盛岡. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

Leave a Reply

XHTML: You can use these tags: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">