4月 8th, 2011 | No Comments »

震災の日から、もうすぐ一ヶ月。
被災され、ご家族を亡くされた方、家を失われた方のことを思うと、
ほんとうに、胸が潰れるような思いです。

津波の被害が大きかった大船渡市と陸前高田市には、
私も昨年のクリスマスに訪れたばかりでした。
晴れ渡った空と、燦めくような海に抱かれた長閑な港の風景が、いまも眼に浮かびます。
太陽がいっぱいに注ぐ明るいあの町が、津波に壊されてしまったなんて、
信じられません。


けれども、被災地の方は懸命に立ち上がろうとしています。
先の見えない不安のなかでも互いを支え合い、前を向いて歩もうとしている。
自らも被災されながら、困っている人の力になろうと働かれている方もいらっしゃって、非常時に在っても自然と他者を気遣う東北の人の心の逞しさに、
日本のみならず世界中の人々が感嘆の声をあげています。


私はいま、宮沢賢治のことを、思わずにはいられません。
賢治は、岩手県の花巻の出身。賢治が生まれた1896年は、
三陸地震津波と陸羽地震の発生した年で、岩手県にも甚大な被害がありました。
被災地で赤ん坊が生まれたというニュースをこの頃も耳にしますが、
賢治自身も、被災地の子でした。
自然を畏れ、天や大地と感じ合いながら、人の幸せを願った賢治の出発点は、そういうところにあったのだと思います。
賢治のなかにある優しさや、闇を突き抜けていく燃えるような晴れやかさは、
被災地で立ち上がろうとしている岩手の人の気質と無縁ではありません。


このひと月で、東京もだいぶ変わりました。
節電モードで、街がひっそりしている、その落ち着きもありますが、
都市の趣きだけでなく、人の心も変わってきていると感じます。
物質的豊かさに溺れ、見えなくなっていた大切なものが、
少しずつ見えるようになってきています。
絆の大切さ、家族の大切さ、命の大切さ…
そうやって言葉にできないこともいっぱい、感じられるようになってきています。
多くの人が、自分にできることを探そうとしています。
こんなふうに日本中が心をひとつにしたのは、戦後復興の時代以来なのかもしれません。


たぶん、日本人は誇りを失いかけていたのです。
ながびく不況で自信をなくし、この国の将来にも明るい展望を持てずにいました。
けれども、いま、東北の人々の姿を見て、日本人は再び誇りを取り戻そうとしています。
そのことが、なぜかとても確かに感じられます。
全国の人が、被災地へ援助の手を伸ばすことをとおして、
失いかけていた大切なものと、繋がろうとしているのだと。
私自身もそうです。


いま、東北は、日本のハートです。


被災された方の哀しみの大きさは、はかりしれません。
どんな慰めの言葉も、現実の重みのまえでは虚しいものと思います。
けれども、日本のハートは強靱で、そこには誇りがあります。
それがこれからの私たちを導く、希望だと感じます。


きっと、報道にはたくさんの真空地帯があり、
取り残されたような気持ちを味わっていらっしゃる方もおられると思います。
多くの方が、時が経って忘れ去られるということを
不安に思っていらっしゃることでしょう。
けれども、今回の震災は、被災地だけの問題ではありません。
これは、日本人全員に架せられた、大きな試練だと感じます。
日本人は真価を試されている、そんな気がしてなりません。
ここで、私たちがしっかりと地に足をつけて、
被災地の復興を持続的に支えていくことができれば、
数年後には、日本人はいくつも階段をのぼって精神的にも成熟し、
大切なものを理解することのできる国民になっているのではないでしょうか。
日本はふたたび自信を取り戻し、世界から尊敬される、
本当の意味で豊かな国になれるかもしれません。


亡くなられた方のためにも、生き残った人は、
これまでよりもずっと熱心に生きなければならないのだと思います。


大きな哀しみの先には、必ず大きなよろこびがある、そう信じています。
私も、岩手のハートと、ずっと繋がっていきたいと思います!

 ***

「僕はもうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

                            宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

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11月 4th, 2010 | No Comments »

 盛岡の「映画館通り」を歩きながら、今年初めて秋というものを実感しました。十月ももうすぐ終わり・・・もちろん、秋はとっくのとうに来ていたのです。けれど、本当の意味での「秋の実感」はずっと遅れて私のもとへやってきました。
 空気を胸のなかにいっぱいに入れると、すっきりとしたつめたさが身体にしみました。
 盛岡の秋--。

 明日から盛岡へ行くと言った私に、ある友人が一冊の本を手渡してくれました。(その日、何故かたまたま持ち歩いていたらしいのです!)立原道造の『盛岡ノート』。それは、文庫本より華奢で、古くさくて、表紙はかすかに黄ばんだ薄いパラピン紙に包まれている、そんな本でした。

ここでは 汽車の音が芝居の舞台できこえる汽車の音のように きこえる 
何の具合だろうか それがときどき 
この僕の日をファンタスティックにする
(立原道造『盛岡ノート』)

 10月22日から24日まで、三日間にわたって、もりおか映画祭が開催されました。私も、幾つかのイベントに他のゲストの方々と参加しました。映画も、オープニングからクロージングの上映までたっぷり楽しみました。でも映画祭が終わってこんなに淋しい気がするものだとは思っていなかった。なんだか、やけにがらんとした気持ちなのです。
 それで今日は、映画祭の余韻に浸りながら、盛岡の街をひとり彷徨っているわけです。『盛岡ノート』を片手に。

 もりおか映画祭はいろいろな意味で熱い、お祭りでした。この街に映画ファンや制作者が集まり、一緒に映画を観てたくさん語り合った、そんな三日間。三日前には知らなかった人たちの顔や交わした会話がつぎつぎ浮かんで、期間中に観た映画の風景や台詞や音楽も浮かんで、それらが大きな熱い塊になって甦る、この不思議な感覚。
 盛岡には、十の映画館があり、五つのテレビ局があるそう。これは街の規模から考えると、ちょっと異様なほど多いのです。盛岡人の映像文化にたいする関心の深さが伺えます。そして盛岡にはその事実を体現するような、かなりディープな映画マニアが数多くいらっしゃいます。ここは、映画作りに携わる人間、映画を愛する人々の情熱を引きつけてやまない、「ファンタスティック」な街なのかもしれません。

 方角を確かめぬまま、真っ直ぐに歩いていくと、川に行き当たりました。北上川です。開運橋の下へ降りて、川沿いの歩道を川上へ向かって小一時間ほど歩きました。ゆったりと後ろへ流れてゆく水。気分は何故かジャズです。Bill Evansの”My Foolish Heart”。
 盛岡には川が三本流れています。市内を流れる北上川、東西から注ぎ込む中津川と雫石川。つまり、真っ直ぐ行けばやがていずれかの川にぶつかる。水の流れのある場所って、いいですよね。
 むこうには、岩手山が見えていました。空は晴れているけれど輪郭はくっきりとは見えず、そのどっしりとした黒い塊はなにか「気配」のようにしてそこに在りました。幾度見ても、岩手山が街の風景のなかに突然現れる存在感には、はっとさせられます。
 川面には鴨が浮かんで、環を描きながら漂っていました。

 そこから、光原社へ。宮沢賢治の『注文の多い料理店』の版元です。敷地のなかには、民具や小物を扱うお店があり、喫茶店があり、賢治の原稿や写真などを展示するちいさなスペースもあります。
 賢治の文字は、一度見たら忘れられない独特のかたち。賢治の文体を誰も真似できないのと同様に、賢治の文字もきっと誰も真似できない。それほど賢治らしいなにかが、文字からは滲み出ているように思います。『春と修羅』という詩集に収録されている「永訣の朝」の原稿もありました。これは、賢治が亡くなろうとする妹のことをよんだ詩。内容は泣きだしたくなるほど哀しいのに、奇妙な明るさをもった作品です。丸みを帯びた文字を目で追っていくと、やはりその哀しさと眩しさで、眼がちかちかしてくるのでした。
 ぽとぽとと水を吹いている噴水(?のようなもの)の横をとおり、可非館(コーヒー館)へ。赤煉瓦づくりの狭い店内には香ばしいかおり。カウンターのむこうで私の珈琲がつくられているのを眺めながら待っていると、ふいにステンドグラスの窓から青や緑やオレンジの光が差し込んで、レンガのタイルのうえに揺らめきました。また、眼がちかちかと。この喫茶店には、「ワインゼリー」というメニューがあって、来る度に注文してみたいと思うのですけれど、こんなムードの空間でワインゼリーを食べたら、たちまち酔っぱらってしまいそう・・・(まだ日中なので自粛しました)。次こそは、とまた後ろ髪をひかれつつ店を出て--。

光原社

 啄木新婚の家、古道具屋さんなどを巡り、裁判所のまえの石割桜に挨拶にゆく。それから、櫻山神社へ参拝。古めかしい佇まいを残す岩手銀行の辺りから中津川の河原へ降りる。
 海から産卵のために川をのぼってきた鮭が、仕事をおえて白い腹を浮かべていました。鮭がのぼると聞いてはいましたが、実際に中津川で鮭を見るのは初めてでした。傍らで、萩が赤紫の花をいっぱいに咲かせていました。

 気付けば、風が夕暮れの匂いを孕んでいます。

美しい夕映えがかかる この美しさに 沈黙は耐えられない 
しかし 言葉はすべてに形と影とを与えてしまうだろう
時はしずかだ もう僕のちいさいささやきに耐えられないほど
時はみちている(中略)
あちらこちらの 紅葉した木に 風がしずかに過ぎる
(立原道造『盛岡ノート』)

 市役所の辺りには、「トチの実が落ちます」と注意を促す立て看板が、所々に。トチの実って確かに堅そうだけれど、こんなに警告しなければならないほど危険なの?!(・・・と思って後で人に訊いたら、実際に歩行者や車両に被害を与えることがあるそうで。しかも、あの栗のような格好の実には物凄い苦味があって、おいそれとは食べられないらしいのです。複雑な行程で幾日もかけてアクを抜き、ようやく「トチ餅」になるのだと。)

 なんだか小腹が空いてきました。盛岡といえば迷わず冷麺。コシのつよさ、さっぱりとした風味がやみつきなのです。(盛岡の「三大麺」は、わんこそば、じゃじゃ麺、冷麺。人によって好みが分かれるようですが、私はもっぱら冷麺です。)幾つかの有名店がありますが、どこも味が違って食べ比べるのも楽しい。その日は、冷麺発祥のお店に向かいました。(美味!)

 お店を出ると、辺りに夕闇がみちてきていました。
 ゆっくりと、「映画館通り」を歩く、ホテルへの帰路。
 盛岡はやっぱり独特な雰囲気のある街です。訪れてみなければわからない風情があり、文化の匂いがあります。
 昨日の今頃は、映画祭がクライマックスを迎えていたなぁと、また映画祭のことを思い出し、ぼうっと空を眺めてみる。
 映画には人を集める力、人を幸せにする力がある、そういうことをひたすらに実感した三日間でした。映画作りに携わる人間として、こんなに幸せなことはありませんでした。

映画館通り

 盛岡の映画のお祭り、ホンモノの映画好きのためのお祭り。まだいらしたことのない方、来年はぜひどうぞ!
 そして盛岡の散歩にも、お出かけください。

僕は なぜ星を見ることを忘れていたか
夜の空に 星は こんなにかがやかに こんなに爽やかだ
言葉もなく 僕は 夜のなかに 立つ 夜の空気を吸いながら
(立原道造『盛岡ノート』)

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5月 13th, 2010 | No Comments »

 東京から新幹線に乗って盛岡へゆく道すがら、——ふと居眠りをした隙に、桜前線を追い抜いていた。たぶん仙台の辺りであったように思います。4月の下旬。気付いたら、先ほどまでちらほらと見えていた薄紅色は車窓から消え、寒々とした冬枯れの風景が広がっていました。
 盛岡駅におりたつと、空気はぴんと冷えていて、深呼吸するとそのつめたさが肺にしみてきました。盛岡は雨。市内の桜の梢には堅いつぼみが閑かに光っていました。霧雨のなか、磨き抜かれたような黒い枝の先にぴかぴかと。 裁判所のまえにある「石割桜」は、樹齢は360年を越えるそうです。本当に、巨大な花崗岩を割るようにして荘厳と生えています。その姿はどこか神話的で、街なかに不意に出現した神さまの化身のようでもあります。昭和七年に裁判所が火災に遭った際、北側の一部が焼けたそうですが、翌春には再び花を咲かせたとか。例年、アスファルトの照り返しのせいで市内の他の桜より少しばかり早咲きらしいのですが、やっぱり花は一つもひらいておりません。
 まだ堅いつぼみを見上げながら、花を待つ時間はいいものだなぁ、と思いました。そういう時間が、本当は一番素敵なのかもしれないな・・・と。
 文明がいくら進歩しても、人間は桜の花をつくることはできません。花を準備し、咲かせるのは桜の木。けれどもこうして桜の下で佇みながら、花を待ちながら、密かに空想の花を咲かせて満開になった桜の様子を想像してみることはできるのです。

開花を待つ石割桜(写真は資料映像/2007年撮影)

 さくら。
 今年は東京で満開の桜を見ました。つぼみがふくらんでから咲くまでに、だいぶ時間がかかりました。桜にとっては苦難の年だったのかもしれません。猛烈な寒さと暴風が、今にも咲きはじめそうな柔らかいつぼみをおそいました。夜中じゅうガタピシゴウゴウと鳴っている窓の傍で、ああ、これでもう今年の桜はだめになるのかもしれない、そう思っていたら翌朝、桜のつぼみは何事もなかったかのように枝に残っていました。残っていたどころか、ひとつも落ちた気配がないのでした。あの悪天候のなかを、逞しくもじっと耐え忍んだのです。・・・思えば、桜は私が生まれる前からずっとここに生えていた。この場所がどんな風の通り道になるのかとかいうことなどはとうに知り尽くしていて、地勢に合ったように根を伸ばし枝をはっているのでしょう。たまたま傍を通りかかった私などが感心することのほうがおこがましいのです。毎年、平然と咲く花は、その色も形も香りも、すべてが人知の及ばない仕組みのなかで生まれているのです。人は、ただ開いた花の下でうっとりと溜息をつくことができるだけ。

 さくら さくら 弥生の空は 見わたすかぎり 
    霞か雲か 匂ひぞ出づる 
      いざや いざや 見に行かん

 気を揉んでいたせいか、ようやく花が咲きそろったときの嬉しさは格別で、お花見にも熱がはいりました。満開の桜の木漏れ日の下、お弁当をひろげ、ビールをあける楽しさ。桜の下では、人の顔も明るくほころんでしまうものです。

開花を迎えた石割桜(写真は資料映像/2007年撮影)

 坂口安吾に『桜の森の満開の下』という短編があります。これは、背筋の寒くなるような、たいへん不気味な作品なのですけれども、どういうわけか私は、春になると読みたくなります。今年は、桜の下で読みました。これを読むと、桜の下がなにやら恐ろしい場所に思えてきます。ひっそり人気ない山奥で満開になった桜の下などは閑かすぎるほど閑かで、なるほど怖ろしいものなのでしょう。そう思って眺めると、お花見でどんちゃん騒ぎをする人の様子が、桜のはかなさと怖ろしさに抵抗を試みているようにも見えて、なんだかまた奇妙な趣きがあるのでした。

 さて、ゴールデンウィーク明けの、五月。
 ふたたび盛岡へ参りました。今度こそ、満開の桜が見られるかもしれない。そう期待していましたが、新幹線が桜前線に追いつくことはありませんでした。北へ北へ追いかけても、それはもう過ぎ去ってしまっていました。盛岡の桜は、ひらひらと花弁を風に舞わせ、薄緑色の葉っぱをいっぱいに吹きだしていました。
 たった二週間の間に、盛岡の風景は一変していました。岩手山の雪もだいぶとけて、険しかった山の風情が穏やかになりました。私の見ていなかった間に、色のなかった桜の梢はいっせいに薄紅色の花をまとい、それを落として今度はすっかり緑色に変わってしまったのです。
 盛岡で満開の桜が見られなかったのは、残念なこと。でも、本当の意味では、幸運だったのかもしれない、そんなふうにも思います。

 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
 雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀に情ふかし。
 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。


 『徒然草』の、有名な段。「桜の花は盛りだけを、月は曇りなく照りわたっているのだけを見るものではない」と。
 私が盛岡で巡りあった時間、————桜の下で、堅いつぼみを見上げながら花を待ち遠しく思う時間、満開になったらどんなだろうかと思いめぐらす時間、そして、残り少ない花弁が風に散っていくのをそわそわと見守る時間——が、ほんとうは尊いのかもしれません。
 こうして桜が咲く度に、散るたびに、心を動かされるのは、日本という風土に日本人として暮らしていることの幸せ。四季の移ろいのなかで、古来より日本人は心を動かしてきました。われわれの文化の神髄は、自然の営みに呼応した、幽かで、透明な、心の動きのなかにあったのではないでしょうか。

 6月、緑が濃くなる季節、ふたたび岩手へ旅する予定です!
 どんな風景に出逢えるのか、とても楽しみです。

満開の石割桜(写真は資料映像/2007年撮影)

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1月 17th, 2010 | No Comments »

 2010年は、『遠野物語』が発刊されてから百年という節目の年にあたります。『遠野物語』は、民俗学の父・柳田國男が、遠野の民話や伝承を書き綴ったアンソロジー。英訳も出版され、今では世界中で読まれています。無駄のない簡潔な文章で書かれていますがその行間は広く、読むものを遠野の幻想へと誘います。私はものごころついたときから、『遠野物語』が好きでした。

 四十「草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといへり。草木の色の移りゆくにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変はりてゆくものなり。」

 たとえばこんな短い章。内容は実に他愛ないのですが、読んでみると草木の色と狼の毛の色合いのイメージが重なって、風景がすっとたちあがってきます。名文と言われるものの、マジック。
 『遠野物語』には、河童や天狗や雪女など此の世ならぬものの話が多く含まれています。怖ろしい話、哀しい話、くすっと笑いたくなるユーモアもあります。ページをめくるたび新鮮な驚きに出逢える、それが『遠野物語』という文学の見事さ。百年を生きのびた物語は、きっと千年だって生きる。古びることのない物語の「感じ方」をとおして、過去と現在と未来の人間がひとすじに繋がってしまうというのは、面白いことです。自分が生まれるまえにも物語はあり、いなくなったあとにも物語は残る。
 さて百周年となれば、もちろんお祝いです。今年遠野ではさまざまな記念事業が企画されています。そのうち一つが「語り部1000人プロジェクト」–昔話の「語り」だけではない、郷土芸能や食文化などさまざまなジャンルの「語り」をとおして遠野を盛り上げ、観光客をおもてなししようという企画です。

遠野にてめんこいテレビ大久保アナとのひととき

 ご覧くださった方もいるかもしれません。めんこいテレビの「山・海・漬2009大晦日スペシャル! 遠野・イタリア語り部出逢い旅」。
 遠野の語り部さんから聞かせていただく物語は、やはり印象的でした。遠野言葉って、あたたかいのですね。囲炉裏に閑かに燃える火のように心にしんしん沁みとおる。遠野は寒い土地だから人々はうつむいて口もと着物に隠すようにして喋るようになった、だから遠野言葉にはうちにこもるような独特の響きがある、そんなお話を聞きました。
 ひとつ屋根のした人と馬が一緒に暮らしたという茅葺きの曲がり屋。明るい屋外から中へはいると、暗さでしばらくは眼が慣れません。香ばしい燻しの匂いが冷気に漂い、床はギラリ黒光り。かつてここに住んだ人は、馬のくしゃみや鼻息を聞きながら家族で語り合い眠ったのだろう、想像がふくらんできます。
 こんな「語り」に出逢いました。
 「昔はわたしも馬と一緒に曲がり屋に住んでいたんです。子馬を競りに出す日なんかね、子供にとっちゃお祭りでした。子馬の見栄えをちょっとでもよくしようと手入れをしてね。一緒に里に下りていって高く売れると嬉しい、でも子馬を手放すのはすごく辛かった。なにしろ家族みたいなもんですからねぇ。帰り道は泣いてかえりました。・・・そういえばこんな迷信もあった。なんでも馬糞を踏むと背が伸びるという話でね、子供はやったもんですよ、生暖かい馬糞を素足で踏んだ。実際の効果は疑わしい(苦笑)・・・そうと、曲がり屋のなかって暗いでしょ。これだけ暗いと、太陽といっしょに生活するしかないんです。夜は寝るしかない。寒いから家族でかたまって寝た。今と違って、寒さと暖かさのめりはりがあるから肝が丈夫に鍛えられるってこともあるんです。肴がさびしくても囲炉裏端で呑む熱い酒はおいしい。・・・それに、寒い中待ちわびた春の訪れは格別に嬉しいもの。近頃じゃ、木々の芽吹きの嬉しさにも、ひとつひとつに感動してしまうんです。年とったのかなぁ、涙もろくなりました・・・」、「馬の目ってうるんでてやさしいでしょう。なんだか泣いてるみたいでね。・・・だから子供のときは、哀しいときは馬のそばへいってね、顔を見ていた。そうすると、慰められるの」-こんな具合に、話は尽きません。『遠野物語』の舞台に生まれ育った人たちは、まるで息をするように、歩くように、かくも自然と「語る」術を心得ている。尽きないというのは、素敵です。
 厳しい自然のなかでの生活がそうさせるのでしょうか、遠野の人の気質には独特のさっぱりとした凛々しさがあるように思われて、私はそこに惹かれます。嘘のない閑かな心配りに迎え入れられる、よろこび。『遠野物語』を片手に遠野を旅する、楽しさは格別です。

「サレルノ映画祭」出席のためイタリアを訪れる

 番組後半では、私自身も語り部の1/1000人として、遠野市の姉妹都市であるイタリアのサレルノ市を訪ねました。今から28年前、映画「遠野物語」(村野鐵太郎監督)がサレルノ映画祭でグランプリを受賞したところから、両市の交流は始まりました。1984年に提携がむすばれてからは、毎年のように人々が往き来してきたそう。今回は遠野の訪問団に私も加わり、イタリア語で遠野の昔話「おしらさま」を「語る」という貴重な経験をさせていただきました。「おしらさま」は、『遠野物語』のなかにもある、馬と人間の娘との悲恋の物語です。
 遠野は北国の山に囲まれた盆地、一方のサレルノはイタリア南部に位置する太陽のさんさん注ぐ地中海の沿岸都市。人々の気性も、文化の土壌も、市の規模も、まるで違います。そんな対照的な風土に生まれついた姉妹は、お互いに惹かれあっているように見えました。おそらくは互いの風貌や性格のあまりの異質なところに。そしてそれにもかかわらずなぜか通じ合ってしまうという不思議に。一見どこも似ていないような二つの都市は、古いものを大切に思う気持ちにおいて繋がりながら、たっぷりと時間をかけて語り合ってきたのかもしれません。異質なものに触れ、同時に自身の文化の独自性を再発見し、互いの魅力を磨き合ってきたのです。一度芽生えた愛着は簡単に醒めることありません。姉妹都市交流というのがこんなに熱いものだとは、これまで思ってもみなかったことでした。
 「語る」という言葉には、「喋る」とも「話す」とも違う独特の含みがあります。「語る」の含むもの、それは時間ではないでしょうか。じっくりと腰を落ち着けて膝頭をつきあわせる、耳を傾ける、そういう時間の営み。「語る」ためには、きっと特別な話題は必要ありません。ただポーズが要るだけ。やさしい、あたたかい、「語る」というポーズが。実利的に考えたら箸にも棒にもかからないこのささやかなポーズが、今こんなにも愛おしい。たぶん時代が、語りあうことを求めているのでしょう。

***

達増拓也岩手県知事を表敬訪問

 ご縁あって「希望王国いわて文化大使」を拝命することになりました。東京で生まれ育った私にとっては、ふるさとができたみたいな嬉しい気持ち。岩手は広い県です。なにしろ一県で四国ほどの面積がある。宮沢賢治のイーハトーブも、今年世界遺産登録を目指す平泉も、改めてじっくり歩いてみたい! 旅は、まだはじまったばかりです。

2010.1.17  近衛はな
(いわて文化大使、遠野市語り部1000人プロジェクトメンバー)

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