釜石小学校校歌

12月 13th, 2011
知人で演劇プロデューサーの沢野いずみさんより、芝居のフライヤーが届いた。
タイトルは、もりげき八時の芝居小屋 第120回「Reading flash2012 井上ひさしREMIX」というものだ。
作家の井上ひさしさんの作品を盛岡の演劇人たちが舞台化するもので、フライヤーには、「劇作家・小説家・エッセイスト…様々な顔を持つ演劇界の巨匠・井上ひさしさんへの、私たちのリスペクト舞台」とある。
芝居については全くの門外漢なので詳しく説明することはできないが、沢野さんはじめ、架空の劇団のくらもちひろゆきさんが関わるものだけに、とても興味深い舞台になることだろう。日時は来年1月25~27日。興味のある方はぜひ、足を運んでいただきたい。

さて、このフライヤーを沢野さんに送ってもらった理由は、フライヤー用に写真をお貸ししたからだ。
もうずいぶん前のことだが、このフライヤーを作るにあたり沢野さんから出たリクエストは、「震災の海を見せながらもの希望の感じられるものを」というものだった。
舞台内容がどれぐらい震災に触れるのかは定かではないが、震災はひとつのテーマになっているという。
「でも、決して、瓦礫とかそういうのだけで震災を伝えたいんじゃないです。震災があっても、負けないような、希望みたいな、きれいな海みたいな…」と沢野さんはもどかしそうに電話の向こうでいった。
この話を聞いたとき、正直、沢野さんはなぜそれを写真にしようと思ったのだろうと疑問を覚えた。
写真は撮ったか撮らないかにつき、何より、当たり前だがどこまでも写実的だ。簡単に言えば写っていないものは写っていないのだ。
もし、震災後という今から「震災の光」のようなものをビジュアルにしたければ、きっと「写真」よりも「絵」の方が作りやすいのではないかと思ったのだ。

でも、沢野さんはおそらく「絵」ではない「写真」に何かの力を感じ、わざわざ僕に声をかけてくれたに違いない。そう僕は思い直し、「少し考えてみます」と電話を切った。

その夜、いろいろなことを考えた。
震災における希望とは何か。
今回の震災では多くの尊い命が失われたが、幸いにして僕の近しい人で亡くなった方はいなかった。
また、僕は家が流されたわけでもない。
そんな僕が震災をきちんと感じ、また、そこからの希望を見ることができるか。
それは僕にとっては荷が重いというよりは、いまだ立ち入ってはいない領域だと思われた。
でも、簡単にさじを投げることはしたくなかった。
そこで、僕なりに震災を最も間近に感じた時に撮ったフィルムを改めて見直した。

フィルムは、震災から約半月後の3月末から4月頭にかけて、福島の相馬から青森の八戸まで車で寝泊まりしながら撮ったものだった。
何かに発表しようと思って撮ったのではなかった。
岩手には縁もゆかりもなかった僕がひょんなことから岩手に住むようになり、それが12年たって、何となくこれからもずっと岩手に住んでいくんだろうなと思った矢先に起きた震災。自分と土地に関係を知るうえでも、震災がどういうものなのかを見てみたいと思って出かけた旅の記録だった。
もちろん、物見遊山で出かけることには罪悪感もあった。何人かの知り合いに物資を届けるという目的はあったが、それは正直言うと無理矢理の理由付けに過ぎなかった。単純にどうしても見ておきたかったのだ。

旅は10日間と少しだった。
何を見れたということではない。
現地を見ることで、震災という事象を自分の中で現実のものとして捉えることができるなどという生易しいものではなかった。
僕はただ、果てしなく広大な土地に横たわる、まさに悪夢としか呼びようがない自然の猛威のなかを車で走っただけだった。
その後、機会があって何回も被災地には足を運んだが、結局、今でも悪い夢を見ているだけではないかという印象をぬぐえないでいる。
そんな程度だから、旅で撮り得たものも何もなかった。
フィルムにはただただ瓦礫と海が写っているだけだった。

でも、希望という意味では、ひとつだけ思い当たることがあった。
それは海の美しさだった。
人間の価値観ではあるが、陸はどこまでも無惨だった。
しかし、海という自然は、その人間の価値観をはめ込んでみても美しかった。
そして、光もまた美しかった。
早朝、海から昇る赤い太陽の光は澄みわたり、浜を洗う渚は宝石をまいたようだった。
多くの生命を奪った海と知りつつもやはり美しいと思えた。
その海に向かって僕は何度もシャッターを切っていた。
瓦礫を前に涙する母と娘、ぼんやりと惚けたように瓦礫の中を歩く老人、静かな眼差しで行方不明者を探す自衛隊員…。光る海には、旅で見た光景が重なり続けたが、それが何を意味するのかわからないままシャッターを切った。何枚も切った。

結局、沢野さんから電話もらったその夜、僕は海の光を撮った写真を選んだ。
希望なのかどうかわからないけれど、美しいものには何かがあると思ったからだ。

今日、沢野さんから届いたフライヤーは折り畳まれており、それを開いていくと一面にそのとき撮った写真が現れた。
朝焼けの砂浜の真ん中には、鉄骨の瓦礫が転がり、泡立つ波はその瓦礫と、朝日できらめく砂を洗っていた。
そして、明けようとする空には、井上ひさしさんが作詞した「釜石小学校校歌」がデザインされていた。
僕は、砂粒を拾うようにして校歌を読んだ。はじめて触れる歌だった。

「釜石小学校校歌」

いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる

はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す

しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは 手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手とてをつないで しっかり生きる

井上ひさしさんは、昨年の2010年の4月9日にお亡くなりになっている。
当然、震災のことは知らない。過去に起こった三陸の津波や、宮城県沖地震の発生が予想がされていたことは知っていたはずだが、これほど大規模な津波が押し寄せるとは想像していなかっただろう。
しかし、この歌に託されたメッセージはどうだろうか。
津波が起こり、その悲しみを背負った人がいかに生きていくべきか。
この歌にはその方法のすべてが記されているような気がする。

孤独であっても、すくっと立ち、歩き、大きな声で友を呼び、手をつないで生きていく。
寄り掛かるのではない。救いあげるのでもない。
自らの星と他者の星に横たわる遥かな世界を認め、それでも互いの存在を認めつつ光を送り合い、生きていく。
そして、悲しみや孤独さえも自らを生かす糧とする。
そんな風に井上ひさしさんは言っているように思う。

優れた言葉は生き続ける。
こうして、時を越えて、必要なとき、必要な者へとやってきてくれる。
「言葉」も「写真」も、「表現」とは本来そういうものなんだろう。


ウエブページ:Atsushi Okuyama Web
ブログ:From The Darkroom

生命の熱

11月 27th, 2011
今年も残すところ ひと月と少し。紅葉の季節もそろそろ終わりとなり、本格的な冬を迎えようとしている。

最近、落葉する木々の姿を見ていていると、ふと漆掻きの風景が頭をよぎった。
初夏より、漆掻きの仕事を追う撮影が始まったので、今年は幾度も岩手の県北、浄法寺に行った。
そして、幾度も漆掻きをする仕事人にカメラを向ける機会を得た。

漆掻きは細部を見つめなければ実に単純な作業といえる。
漆の木にカンナと呼ばれる刃物で傷をつけ、そこから滲み出た漆をヘラでかきとる。それ以下でもそれ以上でもない。
おそらく、カメラを通して見える光景もこの範疇(はんちゅう)である。
しかし、レンズが送ってくれる漆掻きの世界に僕は没頭した。

カマで漆の樹皮を削る音に聞き耳をたて、カンナで「辺」と呼ばれる傷をつける際に落ちる花びらのようなカンナ屑の美しさに眼を見張り、ヘラで漆をかきとる際の職人の手さばきに惚れ惚れした。
何よりもカンナで樹皮を削った直後、刹那とも言える時を経て音もなく滲みでる漆の艶やかな照りには不思議な色気と、木という生命から放たれる「生」の気配の濃厚さに驚いた。
そう、僕にとって漆掻きの魅力は、木に抱かれた生命の気配のリアリティーだったと、今になって思う。

木が生きていること。それは頭ではもちろんのこと、感覚の上でも理解していることだと思ってきた。
とくに5年前からは縁あって雫石の森の中に暮らしている。
日々の暮らしがどれほど忙しくても窓の外に見える木々に眼をやらないことはない。
圧倒的な勢いで芽吹く春、濃密に生い茂る夏、結実し、葉を紅く染める秋、そして、静寂の中に立つ冬。春夏秋冬のなかで木々は饒舌に語り続ける。
しかし、漆の木はこういった僕の生活のそばにある木とは違う。
人との関係において、まるで異なるのだ。

「殺し掻き」
浄法寺の漆掻きはこう分類されるという。
意味は言葉の通りだ。漆を掻かれた木は秋が深まり、漆掻きの季節の終わりが来ると切り倒され、ひとまずの生命を終える。
この掻き方に対し、「養生掻き」と呼ばれる方法もあるという。木を掻き殺さず、養生しながら翌年もまた掻くというものだ。
どちらが優れた掻き方ということではなく、おそらく浄法寺では「殺し掻き」がその風土に適していたのだろう。
そして、いずれの掻き方にしても、「掻く」という行為は、木にとって大きな負担になることは間違いないだろう。

漆の樹液とは、人間に傷つけられた傷を癒すために木が出すという。
人間にしてみると漿液といったところだろうか。
漆掻きとは、漆の木が自らを癒すべく振り絞った体液を奪い去るある意味で非情な行為なのである。

それでも僕は、漆を掻く人も、掻かれた漆の木も美しいと思う。
わずかな道具を手に山を駆け巡り、漆を一滴、また一滴とすくいとる漆掻きの職人。
初夏から晩秋まで、日を追うごとに傷を増やし、やがては全身があたかも彫刻作品のような佇まいを得る漆の木。
そこには、漆を掻く人だけの、漆を掻かれた木だけの、しっかりと熱のある生命感が二人を包んでいるように思う。

漆掻きをする職人に聞いてはならないことがあると思っている。
「あなたは漆の木に愛情を持っているか?」という問いだ。
それはたとえば、牛を飼う人、鶏を飼う人、豚を飼う人にも当てはまるだろう。
「やがて殺される家畜に愛情を持っているか?」
こうした問いは、「生命」という本質を知らぬ者の愚問だ。あるいは「生業」という言葉を知らないのだろう。
生き抜くこと以外に意思を持たない生命に対し、「やがて死ぬのになぜ生きるのか」という問いをぶつけることに何の意味がないように、
木や家畜とともに生きる人に対し、対象への愛情を問うても何の意味も持たないと思う。
彼らにとって、漆も牛も豚も鶏も、彼らを生かすものであり、自身の血流の一部だと思う。
おそらく彼らは、家畜や木とともに百万回殺され、百万回新たに生まれ変わって、今ここに在るのだ。

僕が毎日眺めている森はとても美しい。
けれど、漆掻きの世界には、この「美しい」の中に収まることのできない熱にも似た生々しさが深く息づいている。


ウエブページ:Atsushi Okuyama Web
ブログ:From The Darkroom

健太郎さんの言葉

10月 27th, 2011
先日、南部鉄器作家の佐々木健太郎さんを久しぶりに訪ねた。
同じ雫石で工房を構える佐々木さんだが再訪したのは数年ぶりのこと。
でも自宅の隣ある工房の雰囲気は全く以前と変わりなく、いかにも「制作途中」といった空気感が漂う工房内の佇まいも数年前と同じだった。

秋田県鹿角出身で、若い時に上京して鋳物工場で鋳鉄(ちゅうてつ)を学んだ後、盛岡で南部鉄器職人として制作を続けてきた佐々木さん。何十年に渡って鉄瓶を作ってきての現在の作風は、「現代の暮らし」に寄り添ったものだ。
鉄瓶を使う理由は今も昔も湯を沸かすために尽きるが、沸かすシーンは以前と大きく変わった。
茅葺き民家の囲炉裏に吊るすという姿は簡単に見れないものだし、このままIHコンロが普及していけば、火を使うということも少なくなっていくのかもしれない。
そんななかで健太郎さんが探し求めているのは、鉄瓶本来の制作スタイルと本質はそのまま保ちながら、軽く持ちやすく、IHにも対応できる鉄瓶のかたちだ。
健太郎さんのこの模索はいくつかの作品として結実しているが、もちろんそれで完成というのではなく、常に考え続けているという。

その一方では、健太郎さんは、「最近は、なかなか新しい形が見出せねえんだよね。そんなに忙しくもないのによ」と嘆いてもいた。
どうやら健太郎さんのなかには、忙しくて夜も昼もなかった若い頃、それでも自分なりの鉄瓶を見つけ出そうと、時間をやりくりして作品作りに没頭していた時代がひとつの基準としてあり、それに比べたら今はまるで駄目だ…と感じられるのだという。

もちろん、今の健太郎さんがスランプということではないのだろう。
研鑽し、積み重ねてきた技術を駆使し、安定したモノ作りを行う。それができる今は、きっと若い頃よりも優れた品質を生み出せているに違いない。それでも、健太郎さんのなかでは、「若い時分に比べたら…」ということになるのである。

果たして、健太郎さんが抱くギャップは埋められるものなのだろうか。
撮影を続けながら、僕が思い起こしたのは「本を読むこと」についてだった。

僕は子供の頃から本を読むことが好きだった。
いわゆる本の虫というほどではないが、文字を覚えてからこれまで、身の回りには何かしら読みかけの本があったような気がする。
しかし、読みたい本をみんな読めてきたかといえば、まったくそんなことはない。
あれも読んでおけばよかった、これも読んでおけばよかったと思う本をあげたらキリがない。
少し前までは、こういう本については、いつか読んでやるぞと思っていたのだが(実際に買ったままになっている本も少なくない)、最近は、それはきっと無理なのだろうと思うようになった。
本とはある意味、出会いであって、出会えるときのタイミングを逃せば、読む日はやってこないということに気づいたからだ。
なぜ、そう思うようになったかについては、これまでの人生経験を生かしての感覚でしかないのだが、今の僕はそう確信している。
いや、本だけではない。何事においても逃したタイミングを再びつかまえることはできないのだ。

少年時代に覚えた驚き、青春時代に気づいたこと、写真を撮るようになって見えるようになったこと。すべてがその時期、その瞬間に与えられたものであって、同じものが別のタイミングでやってきても、大切な経験や気づきとして残らないような気がする。

少し話はそれてしまったが、健太郎さんのものづくりにおいても同じようなもので、新しいものを追い求めた若い時代と、ベテランの域を迎えた今を比べると、大きなギャップが生まれて当然なのだろう。
でも、ものづくりとはそういうギャップを真摯に見つめ、では、今の自分に何ができるかと追求することでしか、自らの今を象徴するものは生まれないというものなのだろう。

では、振り返ってみて、僕自身の今はどうだろうか。
写真を自らの中心に置くようになって、もうずいぶんたつ。
初めて一眼レフを手にし、シャッターを押した日のことは昨日のことのように鮮やかに思い起こせるが、遠い過去のことだ。
あの日以来、いくつシャッターを押してきただろう。そして、いくつのシャッターが僕を変えてくれただろう。

子供の頃、ある人から教えられた言葉がある。
その人は英国人なのだが、わずか17歳のときに親の反対を押し切って北極探検隊に加わったことで、後の人生を変える貴重な体験にめぐりあったという。
北極の写真を見せてくれた後、自らの人生を振り返りながらその人はこういった。
「誰の人生にもたくさんの出会いがある。でも、誰もが一度逃した出会いとは二度と出会うことはできない。人生とはチャンスを掴むことができるか、できないか。その繰り返しなんだよ」
青い瞳をしたその人の名は、C.W.ニコルだった。

いくらでもシャッターは押すことはできる。カメラはいつも僕の指に素直に反応してくれる。
しかし、一度押したシャッターと同じシャッターを押すことは二度とできないのだ。
写真に触れれば触れるほど、懐かしさが増すというのはそういうことだからだろうか。

ウエブページ:Atsushi Okuyama Web
ブログ:From The Darkroom

草原に立つ牛

10月 8th, 2011
先日、久しぶりに旧山形村に短角牛の撮影に行った。
夜、雫石を出て、夜更けに山の上にある牧場についた。
僕は短角牛を撮影する際、できるだけ夜明けからはじめることにしている。
理由は、牛の一日のリズムに合わせて撮影を進めたいからだ。

真っ暗の牧場につくと、当然のことながら牛の姿は見えない。
たくさんの牛たちがいるはずなのだが、存在感は無に等しい。どんなに目を凝らし、耳を澄ませてみても牛たちの気配を感じることはできない。
しかし、夜明けが近くなると一変する。
闇から濃紺へ、さらには薄紫色へと空の色が朝へと近づいてくると、牛たちの咆哮(ほうこう)が始まるのだ。
鳴くのではない。まさに咆哮だ。巨体から噴き出すその声は、山々を越えてどこまでも響きわたるようだ。
僕はこの声を初めて聞いた時、短角牛が持つ声の大きさの意味を理解した。
短角牛の声は、広大な北上高地に連なる峰々を越えて響かせるために存在しているのだと知ったのだ。

以来、僕は牧場にいる短角牛に会いにいく際には、夜に家を出て、その夜は牧場脇に停めた車で寝ることにしている。
先日もやはり車の中に寝袋を敷いて眠った。
そして、天の川が流れていた夜空から、朝の空に変わる頃、示し合わせたように牛たちが咆哮をはじめ、それで目を覚ました。
僕は、三脚を肩に担ぎ、夜露で濡れる牧草をそっと踏みしめながら、牛たちに向かっていった。

結局、その日は日没まで牧場にいた。
牛たちは、早朝から食事を始め、朝日が昇って、安定した光になると風通しの良い丘に登って身を横たえた。
あるいは水を飲んだり、林の中を散歩したりと、のんびりと秋の日を過ごしていた。
牧場に長時間いると、いつも不思議な気持ちになる。
牛の体温や息吹をずっとそばで感じるからだろうか。
まるで自分も牛になったかのような気持ちになるのだ。
もちろん、それはあくまで気持ちに過ぎないが、眼と眼を合わせ、声をかけ、丘を登り、林を抜けていくうちに、ずっと昔からこうして北上高地の頂で過ごしてきたような気持ちになるのだ。

午後になり、太陽が傾いてくると、短角牛は輝き始めた。
夏を越え、秋を迎え、艶やかな冬毛を蓄えた牛の身体は、陽光を跳ね返し、赤く染まった。
そんな牛たちの姿は、緑の草原のなかで灯る火のようにも見えた。

さらに時間が過ぎ、夕日が山の陰に隠れると、急に冷気が下りてきた。昼から夜へ。わかりやすいほどの合図だった。
牛たちの身体にも湿った冷気が静かに降ってきているはずだった。
その証拠にカメラの表面はしっとりと濡れはじめていた。

もう三脚なしでは撮ることはできない遅いシャッタースピードとなっていた。
夕暮れに溶け込もうとする牛の群れに数回シャッターを押し、そろそろ引き揚げようかと思ったそのときだった。

一頭の牛が少し離れたところから僕を凝視していた。
僕が「おい、どうした?」と声をかけると、静かに息を吐いて、一歩、二歩と歩み寄って、立ち止った。
陽光を失った空が青白く澄み、牧草の緑は深く沈んだ色彩をまとっていた。
僕は、夕暮れの中に立つ牛の言葉では言い表せないような佇まいに魅かれ、静かに三脚とカメラをセットすると、十分に気をつけながらフォーカスを合わせ、シャッターを切った。一回、二回、三回…。静寂のなか、やけに大きな音でシャッター音が響いた。
このとき、僕がファインダー越しに感じていたのは、もうこうなると人も牛も何ら変わりはないということだった。

人間を撮るとき、いつも考えるのは「人間とは?」という問いだ。
カメラの先に立つ人がどういう人なのかについても考えるが、究極のところ、人間が持つ不思議さや人間に対する共感でシャッターを押す。
しかし、実を言うと、人間でなくてもいいのだ。
人間を突き詰めていくと、「生命」となり、共感を突き詰めていくと「同時代に存在するものへの思い」となる。
だとすると、それが人ではなく、牛やあるいは一本の木であっても僕の「写真」は満たされるのだ。
事実その通りで、牛に見つめられながら、僕が胸いっぱいに感じたのは、牛の体温であり、大きな身体の中を流れる血流であり、それらすべてと自分が同一線上にいるという確かさだった。
そして、思い浮かんだのは、学生時代から幾度となく読み続けてきた詩の言葉だ。

「ずっと、ずっと大昔

人と動物がともにこの世に住んでいたとき

なりたいと思えば人が動物になれたし

動物が人にもなれた。

だから時には人だったり、時には動物だったり、互いに区別はなかったのだ。

そしてみんながおなじことばをしゃべっていた。

その時ことばは、みな魔法のことばで、

人の頭は、不思議な力を持っていた。

ぐうぜん口をついて出たことばが

不思議な結果をおこすことがあった。

ことばは急に生命をもちだし

人が望んだことがほんとにおこった――

したいことを、ただ口に出して言えばよかった。

なぜそんなことができたのか

だれにも説明できなかった。

世界はただ、そういうふうになっていたのだ」

遠い時代を生きたイヌイットたちは自らの世界観をこのような詩で表した。
でも、これらは、遠い時代を生きたイヌイットたちにとっても、さらに遠い昔のことだ。
世界はもうこんなものじゃない。
人間は魔法の言葉を捨ててしまった。しかし、きっとそうすることで人は人として歩きはじめることができたのかもしれない。
それでも思う。
牛は僕であり、僕は牛である。
そんな風に思える世界は本当に遠い過去のものとなってしまったのだろうか。

ウエブページ:Atsushi Okuyama Web
ブログ:From The Darkroom

先日、地元の神社である岩手山神社で秋の例大祭を迎えた。
集落全員が氏子にあたるので、新参者である僕も氏子のひとりとして祭りの準備や神事に参加させていただいた。

岩手山神社は、その名が示す通り岩手山麓の森の中にある。
社伝によると、大同2年(807)に、かの坂上田村麻呂が創建したとされているが一般的に言って、社伝、寺伝の類いは後付けされたものが多い。
岩手山神社の田村麻呂云々はあくまで伝説と考えた方がいいだろう。

とはいえ、9世紀まで遡らないとしても、岩手山神社は古くから信仰を集める場所だったようだ。
それを物語るのは南部叢書で、慶長8年(1674)に、雫石の木村円蔵院が南部利直公より、岩手山西口の別当を命じられた際、新山堂(岩手山神社の別称)を再興したと伝えている。
つまり、1670年代以前には、すでに何らかのかたちで現在の岩手山神社のあたりが遥拝所的な役割を持っていたのである。

岩手山神社の目の前には、標高2000mの岩手山がまさに巨大な山塊と鎮座している。
また、境内には雫石最高の味わいとされる清水がこんこんと湧きだす。
神々しいほどの山と清らかな水。
この地が人々の信仰の対象となることは必然だったように感じる。

再興後の岩手山神社は、岩手山信仰の修練所としての色が強かったとされている。ここを訪れた行者はまず、神社境内の沢で水垢離(みずごり)をとってから岩手山の頂を目指したのだという。
また、一方で、岩手山神社は地元の産土神(うぶすながみ)であるため、地元の人たちが協力して管理していた。
それは現在も変わらず、神社周辺の集落を代表する氏子総代17名によって岩手山神社を維持し、祭りなどを執り仕切っている。

先日、僕が参加させていただいた祭りは、こうした伝統を受け継ぐものとして行われた。
ただ、それは僕が思い描いていた祭りとは少し様相が異なっていた。
これまで多くの祭りを見てきたが、たいていの場合、行うべき祭り行為の詳細を知る人が存在する。
小さい頃から祭りを見てきて、成長とともに少しづつ役割を担ってきて、年齢を重ねながら祭りを熟知していったという感じの人物だ。
しかし、岩手山神社に集まった氏子のなかには、そういう人物は見当たらなかった。
右も左もわからない、ということではないが、おそらくこうだという感じで行事を進めている雰囲気で、ひとつひとつの行為の意味についても理解している人はあまり見当たらなかった。

また、平日でしかも雨の中で行われたせいか、祭りに訪れる人もまばらだった。
岩手山神社の祭りといえば、かつてはかなり盛大に行われたという。参拝客は郷中のみならず。盛岡の太田、厨川方面からわざわざチャグチャグ馬コを連れて来る人も数多くいたと聞く。
地元のおばあさんによると、ほんの数十年前の雫石では岩手山神社の祭りといえば、一年で一番の楽しみな一日だったそうだ。
ところがこうした賑わいがあったのは戦前ぐらいまでで、戦後は次第に人手が遠のいていったという。
もちろん、これは岩手山神社だけの話ではなく、岩手中いや日本中の神社では同じようなことが起こっていた時期である。
いずれにしても、戦後の一時期をすぎると少しずつ岩手山神社の求心力が薄れ、と同時に祭りの細部を受け継いでいくということもどこかで抜け落ちていったのだろう。

ではなぜ、この時期、人々は祈りや祭りから遠のいていったか。
生活様式が変わったとか、思考、信仰の形態が変わったとか、その理由はいろいろあるだろうが、本当のところは僕にはよくわからない。

多くのものを手にしながらも多くのものを失っていった世代。
「目に見える豊かさ」というはっきりとした目標を持ちつつもどこかで迷子になってしまった世代。
僕自身は、いつもそんなキャッチコピーがついてまわる戦後の高度経済成長期を生きた両親から生まれたからだ。
つまり、僕の世代は気がついたときには「今」のような世の中がそこにあって、失うとか残っているとか、そういうことではなかったように思う。
もちろん、今振り返ってみると、それなりに古いものが残っていたようにも感じるが、やはり、馬を連れて神社を目指し、心からの祈りを捧げる時代ではなかった。

そんなことを考えながら、どこか希薄な岩手山神社の祭りを見ていてふと頭に浮かんだのは、「ロストジェネレーション」というわかるようでわからない言葉だった。
「ロストジェネレーション」。迷子世代とでも訳せばいいのだろうか。
この言葉は多くの場合、バブル崩壊後に社会に出た世代に使われる。これまであった好景気が一夜にして無くなった社会に放り出された世代。社会の仕組みが壊れるなかで迷子にならざるをえない世代。
今年で39歳になる僕もその最初の世代にあたり、一応、迷子の時代を生きてきたことになるのだろうが、でも、本当に僕たちはロストジェネレーションなのだろうか。

失うということはすでに持っているものがあり、迷子になるということは目指すべき場所があるということでもある。
でも先に書いたように、僕たちは気がついたときには、すでに「今」のようで、驚きといえば、パソコンがこんなに日常に入り込んできたことぐらいだろうか。
ただ、そのパソコンにしても、小学生の頃すでに友人がパソコンを触っていたし(僕は見た事がなかった)、まあ、便利な道具が生まれたというだけでそれほどの驚きではないのかもしれない。
いずれにせよ、僕たちは何も失っていないし、迷子になるも何も、ずっと「ここ」にいたのであって、ロストジェネレーションということではないように思う。

だとすれば、ロストジェネレーションとは一体全体、誰を指すのだろうか。

戦前と戦後、二つの時代を生きた人だろうか。それとも戦中、戦後あたりに生まれて高度経済成長を作ってきた僕たちの両親のことを指すのだろうか。
確かに、歴史を見ていく限り、多くの物事が高度経済成長時を境にして変化している。
おそらくあの時代は本当に凄まじい勢いで、それまで普通に受け継がれていた伝統や日常の行事などが失われていったのだろう。
そうした失われたものの記憶を持ちながらも、それを再現することができないという意味では、高度経済成長を作った世代は、僕たちよりもはるかにロストジェネレーションといえるのかもしれない。

しかし、本当のロストジェネレーションとは、特定世代の人々を指すのではないように思う。
大昔に生まれた神社があって、そこが信仰を広く集めて盛り上がって、時代が変われば衰退して、それでも、なんとか神社にまつわる行事を続けるが、核となる「何か」が少しずつ見えなくなっていくこと、そしてそれは誰にも止めようがないこと。
この状況が常にこれからも続いていくとするならば、もしかしたらロストジェネレーションとは、人ではなく「時代」そのものなのかもしれない。

降りしきる雨の中、無事に神事が終わった。
神殿へと至る入り口には大きな鏡が置かれていた。鏡の中には降神の儀を経て御出で賜った神様の姿はなく、どこか落ち着きのない自らの姿があるだけだった。
神事が始まると降りてくると聞いていたが、神様はどこにいるのだろうか。
岩手山神社は、杉の巨木が立ち並ぶ深い森のなかにあり、清浄と静寂の佇まいのなかにあった。

ウエブページ:Atsushi Okuyama Web
ブログ:From The Darkroom

indexmebaby.tk