写真を撮ること

1月 20th, 2012
先日、盛岡のミニコミ誌「てくり」のイベントで2日間限定のポートレート撮影会を行った。場所は、中ノ橋通りの「唐たけし寫場」。
この建物と、館主でありカメラマンであった唐たけしさんについては、次々号の「てくり」で詳しくお伝えするので割愛するが、カメラマンを務めた僕自身はもちろんこと、カメラの前に立ってくれた方々にとっても、とても有意義な時間になったように思う。

この写真館の歴史は、昭和10年からだそうだが、特徴はモダンなスタジオ一杯に設けられた北側だろう。
現在のように人口光を生み出す機材の少ない時代のことである。自然光をいかに上手く取り入れるか。そのために設けたのが北側の窓だった。
一般的な感覚では採光窓は南か東となる。太陽に向けて、という方角である。
北側の窓は、当然、東や南より採光性に劣る。しかし、写真を撮るにはとても良い光となる。東や南の窓は直接太陽の光を拾うのに対し、北側の窓は、太陽ではなく空の光、太陽光が空一面で乱反射したその光を拾う。直接光ではないため、とても穏やかな光が一日に渡って安定して届けられるのだ。

この光の特徴がそのまま写真となる。
北側の窓からの光はハイライトからシャドウまで穏やかなグラデーションを作りながら被写体へと届けられる。
うっすらと青みを帯びた白い光のベールが被写体を包み込むといった感じだろうか。
より柔らかな光となる冬であることも手伝って、今回の撮影会では、とくにその美しさが増していたように感じた。

今回、撮影をご希望された方は、一人の方もあれば家族で、あるいは愛犬と一緒だったりとさまざまだった。
なので、写真を撮られたいと思った理由それぞれだろうが、今の自分や家族の姿を写真として残しておきたいという思いは共通していたように感じた。照れ、はにかみながらも、カメラの前に立ち、それぞれが持つ「今」という時間を表現してくれた。

2日間に渡って、こうした撮影を続けながら、ふと感じたのは、写真は本当に記録のためにあるのだろうか、という問いだった。
いうまでもなく写真の一番の特徴は記録性である。
写真がそのまま真実と足り得るかと言われたら、それは真実ではないと答えるしかない。写真は決して「見たままの現実」ではない。
しかし、写真は、絵画をはじめとするほかの表現手法に比べ、最も記録性に富んでいることは間違いない。
カメラを操作する者は常に主観に支配されているが、レンズとフィルムは主観を越えた、より客観に近づいたものを写し出す可能性を秘めている。つまり、写そうと予定した以外のものが写るということだ。
写真が持つ記録性の豊かさとは、こうした撮影者の思惑が越えたところから生み出されることも少なくない。

しかし、写真を撮るという行為自体は、本当に記録といえるのだろうか。
記録とはつまり、後世に「今」という時間の姿を伝えるものを残す行為である。
撮られた写真は残り、後世の人が見て、写真のなかにいる人や背景からその時代がどのようなものであったのかを知る。間違いなく記録である。
しかし、立ち止まって考えると、たとえば肖像写真の場合、撮る人、撮られる人は、一体誰に対して残そうとするのだろうか。
子孫に対して残すというのが普通の考えだろうが、顔も知らぬ子孫に対して、先祖である自分の姿を残し伝えたいという欲求は一般的な者が持つ感覚なのだろか。そもそも、自らの姿のみを通じて何を伝えたいか。案外伝えたいもの、伝えられるものは少ないと思う。
顔をはじめ容姿はまぎれもなくその人個人のものだが、それは誰にも言えることであって、「個」であることに特別な意味はないだろう。
たとえば、多くの人が思い浮かべることができる肖像写真に坂本龍馬のそれがあるが、あの坂本龍馬の姿は、たまたまあんな感じであっただけで、もし全く違った容姿であっても、坂本龍馬ととしての存在が揺らぐわけではない。
つまり、先祖が子孫に伝えるという意味において、「個」の姿に特別な意味はない。
もし、先祖が自らの子孫に伝えるべきメッセージを持つとするならば、写真ではなく「言葉」で伝えた方がよほど効果的だろう。
「死んだ爺さんの遺言では…」云々は効果があるように思う。

では、家族写真といった類いの写真についてとなるが、写真を撮ることにどういう意味があるのだろうか。
僕は、「今」を知るため、共有するため、あるいは固定するためにあると思っている。
人は誰も「今」を生きることしかできない。しかし、「今」は瞬時も留まることなく過ぎていき、過去となる。
「今」がどのようなものか知りたいと願っても、その「今」は過去の記憶をたどるしかないのだ。
つまり、「今」とは最高のリアリティーを持つものだけど、これほどあやふやなものもない。
そんなとき、写真は「今」を写してくれる。
たった1回のシャッターで、時間も生きとし生ける者のすべても何もかもを「今」として凍結してくれる。
そして、たった一枚の写真によって、人は、かつての「今」と再会し、その瞬間では感じ得ることができなかった多くの真実について学ぶ。
さらにもしそこに自分以外の人、たとえば家族などが写っていれば、かつての「今」は深みを持ちながら増幅していく。
もし、写真に力があるとすれば、そこにある「かつての今」を見ることで、新たな「今」を作っていこうとする気持ちが芽生えることだろうか。

今回、唐たけし冩場で撮った写真は、フィルム現像からオリジナルプリント制作まで僕がすべて手作業で行うことになっている。撮影したフィルムは50本。数日かけてようやく現像が終わったところだ。
現像済みのフィルムをライトボックスの上の置くと、まるでフィルム自体が発光するかのようになって、そのなかにいる人が立ち上がってくる。皆、あの北側の窓からの光を受けて、とても美しい。

僕もこうして、写真を通じてあのときの「今」と出会い、カメラの前に立ってくれた人たちの気配や佇まいから、それぞれの人たちが今まさに歩んでいる「今」をあてどもなく想像したりする。

ある有名な写真家が言っていた。
「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」

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ブログ:From The Darkroom

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