11月, 2011 Archives

生命の熱

11月 27th, 2011
今年も残すところ ひと月と少し。紅葉の季節もそろそろ終わりとなり、本格的な冬を迎えようとしている。

最近、落葉する木々の姿を見ていていると、ふと漆掻きの風景が頭をよぎった。
初夏より、漆掻きの仕事を追う撮影が始まったので、今年は幾度も岩手の県北、浄法寺に行った。
そして、幾度も漆掻きをする仕事人にカメラを向ける機会を得た。

漆掻きは細部を見つめなければ実に単純な作業といえる。
漆の木にカンナと呼ばれる刃物で傷をつけ、そこから滲み出た漆をヘラでかきとる。それ以下でもそれ以上でもない。
おそらく、カメラを通して見える光景もこの範疇(はんちゅう)である。
しかし、レンズが送ってくれる漆掻きの世界に僕は没頭した。

カマで漆の樹皮を削る音に聞き耳をたて、カンナで「辺」と呼ばれる傷をつける際に落ちる花びらのようなカンナ屑の美しさに眼を見張り、ヘラで漆をかきとる際の職人の手さばきに惚れ惚れした。
何よりもカンナで樹皮を削った直後、刹那とも言える時を経て音もなく滲みでる漆の艶やかな照りには不思議な色気と、木という生命から放たれる「生」の気配の濃厚さに驚いた。
そう、僕にとって漆掻きの魅力は、木に抱かれた生命の気配のリアリティーだったと、今になって思う。

木が生きていること。それは頭ではもちろんのこと、感覚の上でも理解していることだと思ってきた。
とくに5年前からは縁あって雫石の森の中に暮らしている。
日々の暮らしがどれほど忙しくても窓の外に見える木々に眼をやらないことはない。
圧倒的な勢いで芽吹く春、濃密に生い茂る夏、結実し、葉を紅く染める秋、そして、静寂の中に立つ冬。春夏秋冬のなかで木々は饒舌に語り続ける。
しかし、漆の木はこういった僕の生活のそばにある木とは違う。
人との関係において、まるで異なるのだ。

「殺し掻き」
浄法寺の漆掻きはこう分類されるという。
意味は言葉の通りだ。漆を掻かれた木は秋が深まり、漆掻きの季節の終わりが来ると切り倒され、ひとまずの生命を終える。
この掻き方に対し、「養生掻き」と呼ばれる方法もあるという。木を掻き殺さず、養生しながら翌年もまた掻くというものだ。
どちらが優れた掻き方ということではなく、おそらく浄法寺では「殺し掻き」がその風土に適していたのだろう。
そして、いずれの掻き方にしても、「掻く」という行為は、木にとって大きな負担になることは間違いないだろう。

漆の樹液とは、人間に傷つけられた傷を癒すために木が出すという。
人間にしてみると漿液といったところだろうか。
漆掻きとは、漆の木が自らを癒すべく振り絞った体液を奪い去るある意味で非情な行為なのである。

それでも僕は、漆を掻く人も、掻かれた漆の木も美しいと思う。
わずかな道具を手に山を駆け巡り、漆を一滴、また一滴とすくいとる漆掻きの職人。
初夏から晩秋まで、日を追うごとに傷を増やし、やがては全身があたかも彫刻作品のような佇まいを得る漆の木。
そこには、漆を掻く人だけの、漆を掻かれた木だけの、しっかりと熱のある生命感が二人を包んでいるように思う。

漆掻きをする職人に聞いてはならないことがあると思っている。
「あなたは漆の木に愛情を持っているか?」という問いだ。
それはたとえば、牛を飼う人、鶏を飼う人、豚を飼う人にも当てはまるだろう。
「やがて殺される家畜に愛情を持っているか?」
こうした問いは、「生命」という本質を知らぬ者の愚問だ。あるいは「生業」という言葉を知らないのだろう。
生き抜くこと以外に意思を持たない生命に対し、「やがて死ぬのになぜ生きるのか」という問いをぶつけることに何の意味がないように、
木や家畜とともに生きる人に対し、対象への愛情を問うても何の意味も持たないと思う。
彼らにとって、漆も牛も豚も鶏も、彼らを生かすものであり、自身の血流の一部だと思う。
おそらく彼らは、家畜や木とともに百万回殺され、百万回新たに生まれ変わって、今ここに在るのだ。

僕が毎日眺めている森はとても美しい。
けれど、漆掻きの世界には、この「美しい」の中に収まることのできない熱にも似た生々しさが深く息づいている。


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