9月, 2011 Archives

先日、地元の神社である岩手山神社で秋の例大祭を迎えた。
集落全員が氏子にあたるので、新参者である僕も氏子のひとりとして祭りの準備や神事に参加させていただいた。

岩手山神社は、その名が示す通り岩手山麓の森の中にある。
社伝によると、大同2年(807)に、かの坂上田村麻呂が創建したとされているが一般的に言って、社伝、寺伝の類いは後付けされたものが多い。
岩手山神社の田村麻呂云々はあくまで伝説と考えた方がいいだろう。

とはいえ、9世紀まで遡らないとしても、岩手山神社は古くから信仰を集める場所だったようだ。
それを物語るのは南部叢書で、慶長8年(1674)に、雫石の木村円蔵院が南部利直公より、岩手山西口の別当を命じられた際、新山堂(岩手山神社の別称)を再興したと伝えている。
つまり、1670年代以前には、すでに何らかのかたちで現在の岩手山神社のあたりが遥拝所的な役割を持っていたのである。

岩手山神社の目の前には、標高2000mの岩手山がまさに巨大な山塊と鎮座している。
また、境内には雫石最高の味わいとされる清水がこんこんと湧きだす。
神々しいほどの山と清らかな水。
この地が人々の信仰の対象となることは必然だったように感じる。

再興後の岩手山神社は、岩手山信仰の修練所としての色が強かったとされている。ここを訪れた行者はまず、神社境内の沢で水垢離(みずごり)をとってから岩手山の頂を目指したのだという。
また、一方で、岩手山神社は地元の産土神(うぶすながみ)であるため、地元の人たちが協力して管理していた。
それは現在も変わらず、神社周辺の集落を代表する氏子総代17名によって岩手山神社を維持し、祭りなどを執り仕切っている。

先日、僕が参加させていただいた祭りは、こうした伝統を受け継ぐものとして行われた。
ただ、それは僕が思い描いていた祭りとは少し様相が異なっていた。
これまで多くの祭りを見てきたが、たいていの場合、行うべき祭り行為の詳細を知る人が存在する。
小さい頃から祭りを見てきて、成長とともに少しづつ役割を担ってきて、年齢を重ねながら祭りを熟知していったという感じの人物だ。
しかし、岩手山神社に集まった氏子のなかには、そういう人物は見当たらなかった。
右も左もわからない、ということではないが、おそらくこうだという感じで行事を進めている雰囲気で、ひとつひとつの行為の意味についても理解している人はあまり見当たらなかった。

また、平日でしかも雨の中で行われたせいか、祭りに訪れる人もまばらだった。
岩手山神社の祭りといえば、かつてはかなり盛大に行われたという。参拝客は郷中のみならず。盛岡の太田、厨川方面からわざわざチャグチャグ馬コを連れて来る人も数多くいたと聞く。
地元のおばあさんによると、ほんの数十年前の雫石では岩手山神社の祭りといえば、一年で一番の楽しみな一日だったそうだ。
ところがこうした賑わいがあったのは戦前ぐらいまでで、戦後は次第に人手が遠のいていったという。
もちろん、これは岩手山神社だけの話ではなく、岩手中いや日本中の神社では同じようなことが起こっていた時期である。
いずれにしても、戦後の一時期をすぎると少しずつ岩手山神社の求心力が薄れ、と同時に祭りの細部を受け継いでいくということもどこかで抜け落ちていったのだろう。

ではなぜ、この時期、人々は祈りや祭りから遠のいていったか。
生活様式が変わったとか、思考、信仰の形態が変わったとか、その理由はいろいろあるだろうが、本当のところは僕にはよくわからない。

多くのものを手にしながらも多くのものを失っていった世代。
「目に見える豊かさ」というはっきりとした目標を持ちつつもどこかで迷子になってしまった世代。
僕自身は、いつもそんなキャッチコピーがついてまわる戦後の高度経済成長期を生きた両親から生まれたからだ。
つまり、僕の世代は気がついたときには「今」のような世の中がそこにあって、失うとか残っているとか、そういうことではなかったように思う。
もちろん、今振り返ってみると、それなりに古いものが残っていたようにも感じるが、やはり、馬を連れて神社を目指し、心からの祈りを捧げる時代ではなかった。

そんなことを考えながら、どこか希薄な岩手山神社の祭りを見ていてふと頭に浮かんだのは、「ロストジェネレーション」というわかるようでわからない言葉だった。
「ロストジェネレーション」。迷子世代とでも訳せばいいのだろうか。
この言葉は多くの場合、バブル崩壊後に社会に出た世代に使われる。これまであった好景気が一夜にして無くなった社会に放り出された世代。社会の仕組みが壊れるなかで迷子にならざるをえない世代。
今年で39歳になる僕もその最初の世代にあたり、一応、迷子の時代を生きてきたことになるのだろうが、でも、本当に僕たちはロストジェネレーションなのだろうか。

失うということはすでに持っているものがあり、迷子になるということは目指すべき場所があるということでもある。
でも先に書いたように、僕たちは気がついたときには、すでに「今」のようで、驚きといえば、パソコンがこんなに日常に入り込んできたことぐらいだろうか。
ただ、そのパソコンにしても、小学生の頃すでに友人がパソコンを触っていたし(僕は見た事がなかった)、まあ、便利な道具が生まれたというだけでそれほどの驚きではないのかもしれない。
いずれにせよ、僕たちは何も失っていないし、迷子になるも何も、ずっと「ここ」にいたのであって、ロストジェネレーションということではないように思う。

だとすれば、ロストジェネレーションとは一体全体、誰を指すのだろうか。

戦前と戦後、二つの時代を生きた人だろうか。それとも戦中、戦後あたりに生まれて高度経済成長を作ってきた僕たちの両親のことを指すのだろうか。
確かに、歴史を見ていく限り、多くの物事が高度経済成長時を境にして変化している。
おそらくあの時代は本当に凄まじい勢いで、それまで普通に受け継がれていた伝統や日常の行事などが失われていったのだろう。
そうした失われたものの記憶を持ちながらも、それを再現することができないという意味では、高度経済成長を作った世代は、僕たちよりもはるかにロストジェネレーションといえるのかもしれない。

しかし、本当のロストジェネレーションとは、特定世代の人々を指すのではないように思う。
大昔に生まれた神社があって、そこが信仰を広く集めて盛り上がって、時代が変われば衰退して、それでも、なんとか神社にまつわる行事を続けるが、核となる「何か」が少しずつ見えなくなっていくこと、そしてそれは誰にも止めようがないこと。
この状況が常にこれからも続いていくとするならば、もしかしたらロストジェネレーションとは、人ではなく「時代」そのものなのかもしれない。

降りしきる雨の中、無事に神事が終わった。
神殿へと至る入り口には大きな鏡が置かれていた。鏡の中には降神の儀を経て御出で賜った神様の姿はなく、どこか落ち着きのない自らの姿があるだけだった。
神事が始まると降りてくると聞いていたが、神様はどこにいるのだろうか。
岩手山神社は、杉の巨木が立ち並ぶ深い森のなかにあり、清浄と静寂の佇まいのなかにあった。

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魂の行方

9月 5th, 2011
先日、山形の庄内に送り盆の行事を訪ねた。
お盆の行事はここ数年のテーマのひとつで、毎年どこかのお盆を訪ねている。
お盆というものはほとんどが同じ時期にするものなので、撮影ができるのは一年に一回きり。もちろん、迎え盆、送り盆と、いろいろと回ることも可能だけれど、一年に一度やってくるお盆の意味を大切にするためにも一年に、ひとつの土地のお盆を訪ねることにしている。

今年は、鶴岡まで足を延ばし、以前からずっと行きたいと思っていた清水のモリ供養にカメラを向けさせてもらった。
モリ供養とは、簡単に説明すると霊界からやってきた霊を「モリノヤマ」と呼ばれる山で供養する行事である。

日本のお盆はたいていの場合、盆入りに祖霊を迎えて、数日間、祖霊をもてなし、送り盆で祖霊を再び霊界に送り出す。
これを毎年繰り返すのだが、モリ供養では、一般的な送り盆行事の後に、再度、魂を送り出すための行事だ。
そして、この行事が行われる場所が「モリノヤマ」と呼ばれる小さな山だ。
庄内清水の場合、三ツ森山がこのモリノヤマに当たり、地元の人たちは、早朝より山頂に赴き、山頂に建てられた簡素なお堂を巡り、魂を再度送り出す。

現在、この行事を執り行うのは、モリノヤマの麓にある曹洞宗の寺院だ。
僧侶と寺の関係者は、まだ夜が明けない時間から山に登り、粛々と参拝客を迎えるの準備を進める。
参拝客が集まったところで行われるのは、祖霊供養とともに、餓鬼道に陥った亡者を救ったり、餓鬼棚と呼ばれる棚を作り、道ばたに倒れた人の霊を慰めるといった施餓鬼供養の法要で、それが済むと客は山を下っていく。
こうした法要が一日に4度ほど繰り返される。

僕がこのモリ供養に興味を持ったのは、この行事が仏教伝来以前から存在していたのではないかという見方がなされているからだ。つまり、古の時代、この庄内に暮らす人に育まれてきた死生観が、モリ供養を生んだというのだ。


仏教伝来以前、モリ供養を通じて土地の人は、祖霊と交感していた。
そこにある時期、仏教集団が入り込み、モリ供養という土地の信仰行事と、仏教行事を結びつかせた。
既存の信仰に上手く融合させていくことで結果として仏教を土地に根付かせたのだ。
このあたりは完全に推測に過ぎない。しかし、たとえば仏教行事ひとつをとっても、東北には、仏教の枠内には納まりきれない行為が含まれていることが多い。そのことを考えると、土着の文化に融合していくという行為が頻繁に行われてきたと想像できないこともない。

モリ供養において、仏教を取り払うことで見えてくるのは、「モリノヤマ」という存在だ。
昔から庄内では、魂は浄化されると山の高みへと昇っていくと考えられてきた。
最終的には、出羽三山(これらの山に限るのも後の修験や仏教伝播からの影響かもしれない。)の頂きへと昇っていくというのだが、魂といえども一気に空を駆け上がることは難しい。
そこで、少しだけ高い場所で鋭気を養うのだという。その少し高い場所こそが、「モリノヤマ」とされてきた。
遺族は山の高みを目指そうとする魂の背中を押してやるため、「モリノヤマ」に向かうのである。

そもそも「モリノヤマ」とは、特別な場所にあるのではなく、暮らしのすぐそばにある小高い場所なのだという。
事実、少し前の庄内には、この「モリノヤマ」が各地に存在していて、それぞれの場所でモリ供養が行われてきた。
清水の「モリノヤマ」が有名になったのは藩政時代からで、霊場巡りブーム到来ととともに近隣から多くの参拝客を集めるに至ったと考えられている。
ちなみに現在、庄内の多くのモリ供養から「モリノヤマ」が外され、寺院が寺の中でモリ供養を行う場合が増えている。
「モリノヤマ」の存在は、この行事における最も大切な部分である。しかし、時とともに移り変わっていくのも人間の暮らしの本質だ。モリノヤマも時の移ろいのなかにあるのだ。

「モリノヤマ」についてもう少し深く知るには、「モリ」という言葉の意味を考える必要があるだろう。
そもそも「モリ」は庄内だけの言葉ではない。
岩手でもそうだが東北では、「モリ」はいわゆる「森」ではなく、「山」を指すことが多い。
もちろん、「山」という言葉もあるが、「山」と「モリ」は区別されている。
「山」は大きな大地の盛り上がりを指し、「モリ」は小さな大地の盛り上がりを指す。
たとえば、岩手山を「山」の代表とすると、「モリ」の代表は、僕の身近なところでいえば雫石の七つ森という感じだろうか。
宮沢賢治の童話の舞台にもなった七つ森は、その名の通り七つの小さな低山の総称だ。
その姿は確かに「山」とは呼び難く、「森」の方がしっくりくる。
しかし、言葉本来の意味としては、「森」ではなく、「盛り」というものなのだろう。

では、「盛り」とは何だろうか。
そこに魂が宿ることを結びつけると、思い浮かぶのが、土葬の際の盛り土である。遺体を土中に葬り、盛った土の姿をそのまま大きくしていくと、低山である「モリ」にならないだろうか。
また、岩手にも庄内と同じく低山を指す言葉としての「モリ」が存在している事実をみると、岩手や秋田にも「モリノヤマ」に似た祈りの形もあったと考えることはできないだろうか。
再び想像の域に入るが、古の東北では、「モリ」が信仰の対象だった。
人の魂はモリで生まれ、一時、肉体を得るが、肉体から抜け出ると再びモリに向かった。
そして、魂はモリで浮き世での疲れを癒し、再び新たな肉体を得るためにモリを降りる。
魂の輪廻する場所。
「モリ」とはそうした場所ではなかっただろうか。

今年のモリ供養では雨が降った。
雨の中、多くの人たちが祖霊のねぎらうために泥の山道を登っていた。
参拝客は高齢の方が多く、頂上では「今年もようやく登ってきた」という声を何度も聞いた。
そして、祖霊と施餓鬼供養を終えると、「ご苦労様でした」とその場にいる人たちに声をかけ、山を下っていった。

魂が存在するかしないかを問う理由は、魂が眼に見えるものではないからだ。
しかし、間違いなく眼の前にいたはずの家族も、逝って葬ってしまえば、見えない存在となる。
存在したものと存在しないものの狭間にあるもの、あるいは分つもの。それを魂と呼ぶのだろうか。

今の僕がわかっていることは、大切なもののほとんどが眼には見えないものだということだ。
モリノヤマの頂きを目指し、そこで魂に手を合わせ、祈ることができる人は、大切なものが何であるか知る人たちなのだろう。

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