7月, 2011 Archives

牛たちを思う

7月 26th, 2011
今、メディアでは牛肉の放射線汚染問題が大きく報じられている。
暴走する原発を抱える福島で育てられた牛の汚染からはじまって、現在は宮城、岩手と東北全域に汚染が広がりつつある。
この汚染を受けて、新聞やネットでは、「全頭検査」や「国による全頭買い上げ」、「県全域出荷停止」といった文字が踊っている。
そして、周知されているように、すでに汚染牛肉は、流通に乗り、その多くが消費されてしまっている。
放射線による健康被害という不気味は、一応、冷却安定方向に進んでいるとされる原子炉の状態と反比例して、増大している。

これによって、多くの人が国産の牛肉、とりわけ東北産の牛肉を口にしなくなるだろう。
自分自身であってもそうだ。牛肉は主食ではない。国産牛となれば贅沢品だ。
危険を犯して、それを口にする必要など、どこにあろうかと敬遠するだろう。

しかし、この状況を前にすると多くの知人たちの顔が浮かび、複雑な思いにかられる。
岩手県北、北上高地のどこまでも続く準平原のなかで山形村短角牛を育てる人たちのことだ。

僕が短角牛を撮りはじめて、すでに10年以上がたった。
その間、短角牛を素材とした料理のレシピ集を2冊と、数多くのPR紙の制作に関わらせてもらった。
現在も記録映像の制作に関わらせてもらっている。
旧山形村(現在は久慈市)で短角牛を撮ることは仕事に違いないが、今の僕には、仕事以上の存在でもある。

短角牛とは、土地伝来の在来種「南部牛」に英国産の「ショートホーン」を掛け合わせたもので、いってみれば、この土地の歴史文化を伝える生き証人でもある。
実際に、旧山形村周辺には、南部牛を用いて沿岸の塩を内陸へと運んだ野田街道(塩の道)が残されており、牛と人が共に生きていた時代の姿が今も伝えられている。
そんな短角牛とそれを育てる人たちと触れ合う時間は、岩手に移住したばかりの僕にとっては新鮮極まる体験でもあった。
岩手のことなど何も知らない僕にとって、短角牛が北上高地の風土へと入り口であったように思う。

そして、今も僕は縁あって短角牛を撮る機会に恵まれている。
さすがに牧場で草を食む牛たちを見て感動するようなことはなくなったけれど、たとえば早朝、暁の空の下で絶え間なく咆哮(ほうこう)する牛たちの姿を目前にすると、大きく胸が震える。
何を理由に震えるのかわからないけれど、牛たちの吐く息の白さや広い背中から立ち上る湯気などを見ていると、心の奥がざわざわと波立つのだ。

牛肉の汚染問題の広がりは短角牛においても対岸の火事ではない。
先日、関係者の知人と電話で話したが、各方面から汚染状況に対する問合せが殺到しているという。
とくに、山形村短角牛においては、数年前より、飼料をすべて国産のものとする「THAT’S 国産」プロジェクトを進めてきた。
この取り組みは全国でもほとんど例がなく、家畜飼料のほとんどを輸入品に頼る日本の現状を見直し、食の安全と安心を高めていこうとする生産者の情熱が支えとなってきた。
原発事故によって、このプロジェクトの意味が根本から崩れようとしているのだ。

こうした状況をうけて、「全頭検査」や「国による全頭買い上げ」、「県全域出荷停止」という措置が浮上してくるのだろうが、語られるべき問題が大きく欠けていると感じるのは僕だけだろうか。

言うまでもなく牛たちは生命だ。
存在としては、家畜であり、人間を支える食であり、経済動物に過ぎない。
だから今回のように問題が起きれば、出荷を停止し、責任ある者はいくらいくらを生産者とその関係者に補償してということになる。
これは生産者の立場を守る意味でも絶対に必要なことだ。
でも、牛たちは牛としての生命を生きている存在だ。
その牛の生命についての配慮が言及されないのはどういうことだろうか。
放射線で汚染されようとされまいと、牛も人間と変わることがない生命であることは何人によっても動かされることはない。
その存在がすべて補償という問題(大切な問題ではあるが)で済まされるものではないはずだ。

これまで、短角牛を撮ってきて、知らされたことは、生産者の牛との付き合い方の繊細さだ。
商品としてより良いものになるようにと細心の注意を払って飼育することはもちろんだが、僕が感じる限り、生産者は牛たちを商品として見ているだけでは決してない。
牛たちが健康で、より良く生きられるように、それをあえて言葉にすることなく実践する。短い牛たちの生命が全うできるようにできる限り手間ひまかけて育てる。その仕事の中身は決して収支で語られるものではない。
僕が知っている生産者とはそんな人たちばかりだ。
そんな彼らに対し、牛がものとして扱い、金額に置きかえればそれで済むという考え方は最高の侮辱としか思えない。

短角牛は、サシ(脂肪)重視の黒毛和種と異なり、赤身の旨味を追い求めてきた。
市場で高い評価が出るのは黒毛の方だが、あえて短角牛は、春から秋までの期間は放牧に出して、筋肉をつけさせるのだ。
この飼育方法を行う理由は、夏山冬里という土地伝来の飼育方法にこだわっての部分もあるのだが、何より牛たちの健康を思ってのことだ。
狭い畜舎で一生を過ごすよりも広い放牧地でのびのびと暮らす牛の方が健康的になることは自明の理である。
また当然、牛が健康であってこそ、その牛肉は安全で安心できるものになりうる。
短角牛は、生産者の努力によって、健康に生きることで、健康な食となるためにその生命を終える。そんな存在なのだ。
もちろん、黒毛和種も生産者たちの愛情とともに生きているということには変わりはなく、牛を食べる側にいる僕たちが知るべきことは、牛を育てる現場は、肉を育てているのではなく、息をしている牛を育てているという事実だ。

にもかかわらず、生命を金額に換算していくことについての議論したつくりえないという現状はやはり僕たちの精神がどこかで歪んでいるとしか思えない。
生命を生命として見る眼差し、生きることと死ぬことを見る眼差し。生命として最も本質に関わる感性を僕たちは失ってしまったのだろうか。それとも、そんな青臭いいこと言う前に、個々に突きつけられた明日の経済を考えるべきということなのだろうか。

たとえそうだとしても、突き詰めていくと、生命をないがしろにする思考は、最終的に自分たち人間という生命をもないがしろにしていく恐れはないだろうか。
子供たちが子犬や子猫を愛するのは、きっと、自らを含めた生命そのものが持っている気配を愛しているのだ。
一羽の小さな野鳥を見て、あるいは一生懸命餌を運ぶ蟻の行列を見て、自らの生命の不思議さに思いを馳せるのが人間が持つ生命に関する感性だと僕は思う。

悔しさをかみつぶしながらも畜舎を掃除をして牛に餌を与える生産者と、人間たちの姿を見つめる牛たちの瞳。
その静かで大きな生命の声を忘れてはならないと思う。

しかし、こうした問題に触れたときの居心地の悪さはどこからくるのだろうか。
原発をはじめ、すべての問題は、結局のところ、現代という社会環境を作り出し、そこでしか生きることができないようになってしまった僕たち自身から出てきた錆であるということ。それに気づいてしまっているからだろうか。

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虫まつりの歌

7月 8th, 2011
少し前になるが、6月半ばの日曜日、雫石の南にある大村で行われた虫まつりを見に行った。
「虫まつり」は僕が知る限り、東北のあちこちで行われている。
田植え後、害虫に稲が負けないように、家族に厄災が降り掛からないように、集落が繁栄しますようにと、生きていく上で最小限だけれども最も大切な願いを託す行事だ。

この行事は主に田畑を持つ集落で行われるが、土地柄に限定されるものでもない。
たとえば、青森の日本海側では、舟に集落の厄災を乗せて送るという行事もあり、人間の願いはどういう土地柄であっても違いはないと感じる。
毎日の小さな幸せ。昨日、今日、そして明日という距離を眺められること。
とても当たり前だけど、奇跡に近い幸せでもある。だからこそ、東北のみならず世界中の誰もが同じ願いを託すのだろう。

雫石大村の虫まつりでは、集落と田畑を潤す川のはじまりとなる家から行事が始まる。
家主とその家族、そして近隣の人が集まり、産土を祀った神棚に向かって手を合わせ、太鼓を打ち鳴らす。
その後、座敷に移動して、ご馳走を前に懇親のひとときとなる。
これが終わると、虫まつり一行はいよいよ集落を歩き始める。
手にするのは細い竹竿と和紙で作った旗だ。
短冊状に整えられた和紙には、「鍾馗大神悪病退散」という道教に由来する神の名が墨で記されている。

素朴かつ簡素な旗ではあるが、これがつまり、神様そのものである。
虫まつりは、この旗を手にして田を練り歩き、集落の外れに旗を置くという内容だが、そこには、鍾馗様が家や田畑から厄災いを持ち出してくれるという意味がこめられている。
だから、旗持ちは重要だ。子供ちたがその役目を担うことが多いのだが、神様とともに家の災いを運び出し、ご先祖たちが受け継いできた田畑から作物を荒らす病害虫を拾い集めるという大役を滞り無く進めなくてはならない。

果たして子供たちが旗に込められた意味を理解しているかどうか僕にはわからない。
しかし、神様に手を合わせ、緊張した面持ちで旗をこしらえる大人たちの姿を目の当たりにすることは、言葉では知り得ない大切な何かを知ることにつながっているように思う。
旗を両手でしっかりと持ち、ぎこちないながらも背筋を凛と延ばして歩く幼い子の姿は、きっとそこから生まれているのだろう。

上流の家から下流の家へ。虫まつり一行が歩を進めると、旗が一本また一本と増えていく。
太鼓の音を聞きつけた家の前では旗を手にした子供たちが待っていて、虫まつり一行に加わっていくからだ。
次第に行列が大きくなっていくその姿はまるで、沢を集めて大河へと成長していく川のようにも見える。

そして行列が最大となっとき、虫まつり一行は、村はずれに立つ一本の大きな松の木にたどりつく。
この松もまた、神様である。とくに何かの謂れがあるものではないようだが、長い時のなかで自分たちの暮らしを見守ってくれてきた存在。
本来、人間にとっての神様とはそういうものだと松の木は教えてくれる。

この松の幹をぐるりと包み込むように旗を立て掛けた後、全員で輪になって手を合わせ、拝む。
「鍾馗様、ここにいるすべての人に降り掛かる厄災の種を何とか持っていってください」と、神様の力を借りて厄災を村の外へと送り出す。

「送る」ということ。
虫まつりを見て、ハッと目が覚めるような思いに至るのはこの部分だ。

農薬も何もない時代、病害虫の発生は生きるか死ぬかの問題だった。
人の身を侵す病や怪我もそうだ。本質的には現在も変わらないとはいえ、かつては小さな病や怪我で人は簡単に死んだ。
そして、そういう厄災に苛まれるのが人の世の常だった。
その結果、僕たちよりほんの少し前の時代を生きた人々は、災いは消し去ることはできないという悟りに似た思いを持ち続けたのではないだろうか。

「送る」という行為はこの思いから生まれたののだろう。
災いを消し去ったり、無くしてしまおうと努めるのではなく、その存在は認めつつ、少しだけ遠くに送らせてもらう。
手を合わせ、ご馳走を供える相手は鍾馗様ではあるが、ときには疫病神をおだて、機嫌をとったら、遠くのできるだけ見えない方に行ってもらう。
おそらく、この行事に宿る精神性とは、自然への畏怖と人間の宿命を見つめる眼差しが源になっているに違いない。

それにしても、自然への畏怖、そして人間存在の原点を知る人たちの感性は何としなやかで、かつ深い覚悟に満ちていたのだろうと思う。
無知で非科学的と言えばその通りなのかもしれないが、揺るぎなき生命の宿命を見つめ、人間としての哲学を持っていたのは、むしろ、遠い時代を生きた人々だったのだろうと感じる。

とはいえ、すべての思い、行いが時を越えて揺るぎなきままであるということはない。
大村の虫まつりに行くのは久しぶりのことで、鮮やかな緑の田を舞台に練り歩く人たちの光景は、いつか見た虫まつりの記憶と同じだった。
でも、決定的なものが欠けていた。
それは歌だった。

もう10年も前になるだろが、初めて見た虫まつりには人々の歌声があった。
「むしまーつり、まーつりよ、やくびょうまーつり、まーつりよー」。歌声は太鼓の響きとともに風そよぐ田をどこまでも渡っていった。

変わること、失うことは、流れる時のなかにあるものすべての宿命だ。
変わることはきっと恐れることはない。失うことでしか何かを手に入れることはできないからだ。
虫まつりも歌声を失い、きっと何かを手に入れたのだろう。
たとえ、それが望んだものではないとしても、善し悪しを判断できるのは未来だけだ。
今を生きる人は変わりつつも本質を見失わないようにするしかないのだろう。

それでも、やはり歌を聞きたかった。
ドンドンカットンと太鼓が打ち鳴らされた後、「むしまーつりよー」と始まる美しい歌声を、6月の空の下で聞きたかった。
そして、写るはずはない歌声に向けてシャッターを押したかった。

ずっとずっと先の将来、虫まつりが残っていたとしたら、その時代に生きる人々は鍾馗様に何を送ってもらうのだろうか。

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