6月, 2011 Archives

一冊の本が届いた。
深い藍色をたたえた表紙には、白抜きの文字で「かなしみはちからに」と記されている。
朝日新聞社からの新刊で、おそらく今日あたりには全国の本屋さんに並び始めた頃だろう。

本の内容は、岩手を代表する詩人・宮沢賢治の言葉集だ。
わずか37歳で逝ってしまった賢治だが、短歌、詩、童話と多岐にわたってたくさんの作品を遺した。
本書はそれらの作品のなかから溢れ出す言葉の数々で構成されている。
言葉の選者は、明治大学教授の斎藤孝さん。賢治研究者であり、著書「声に出して読みたい日本語」やNHK教育テレビ「にほんごであそぼ」等でもご活躍されている言葉のスペシャリストだ。

そして、本書に掲載されている写真は、光栄なことに僕の作品のなかから使っていただいた。
いずれの写真も岩手に移住後に撮ったもので思い出深いものばかりだ。
賢治を意識し続けてきたわけではないけれど、賢治が岩手移住のきっかけを作ってくれたことは間違いない。
賢治が歩いたイーハトーヴの光や風。写真からはそんなものを感じてもらえると幸福だ。

人の世を含めた森羅万象を描き続けた賢治作品のアプローチは無数にあるといってもよいだろう。
自然科学から、宗教学から、児童文学から…これまでも多くの専門家がそれぞれの見地から賢治作品へのアプローチを試みてきた。
そして今回、斎藤さんが賢治作品にアプローチするうえで掲げたテーマがタイトルにあるように悲しみを力に変える言葉だった。

賢治作品に流れるもののひとつは、悲しみであることに誰も異論はないだろう。
この悲しみが、どこから来るのかということについては、僕は賢治が受け入れるほかなかった「不条理」だと思っている。
では、この「不条理」とはいったい何なのかということについては、少し前に個人的に書かせてもらった。(銀河鉄道の夜:From The Darkroom)
もし興味のある方にはそれを読んでいただいてもいいのだけれど、その前にまず、本書「かなしみはちからに」を開いてもらえればうれしい。

賢治作品は難解さがつきものだ。
テキストはきわめて個性的なレトリックで彩られ、一見平易に思えるストーリーも多くの暗喩を含んでいる。
一度、二度では足らず、三度読んで初めて、賢治のメッセージにはたと気づくことも少なくない。
そうした賢治の作品をセンテンスで解体することはある意味、無謀な冒険に近いと思う。
しかし、さすがは斎藤孝さんが選び抜いた言葉群だ。
本書を開けば、高いところから低いところへと流れる水のように、すんなりと身の内に入ってくる賢治の言葉と出会う。


あるいはイーハトーヴの野原を歩き回る賢治のつぶやきに耳を傾けている気分と言えばいいだろうか。
ページをめくり、言葉を追いかけているうちに、その静かな声が大きくなっていき、やがて、賢治の言葉で自らがあふれていくことに気づく。
溢れ出してきたものは誰もが持つ涙かもしれないし、生きていく上で必ず経験するだろう引き裂かれた心の断片かもしれない。
でも、流れ続けることで、何か新しいものが生まれてくる予感を覚える。

文学も写真も、生きるか死ぬかという前では言うまでもなく無力だ。
でも、無力さを肯定し、それでも紡ぎ続けようとすることで、自らを救うことができるのだと思う。
そして、自らが救われることで、他者を救うことにもつながっていくのだと僕は信じている。
賢治の言葉とは、きっと、そんな小さく、深いところからはじまっている。
言葉による自己再生。
もしも、そういうものがあるとしたら、賢治こそ、自らを修羅とし引き裂いた心を、言葉の数々で自己再生を試みたのではないかと思う。

本書は、被災地にも届けられると聞いている。
今回の震災によって喪われたものは、言葉によって補われるものではないだろう。
でも、言葉がきっかけとなり、自己再生への糸口となるものを、もしかしたら見いだせるかもしれない。
それがたった一人であっても、本書が存在する意味は大きいと思う。

そして、長い時間をかけてでも、賢治の言葉のひとつひとつが、悲しみに沈む人の自らの言葉になっていくことを心から願っている。

ウエブページ:Atsushi Okuyama Web
ブログ:From The Darkroom

6月 9th, 2011
昨日あたりから突然夏めいてきた。
2日前から撮影で山形の置賜地方に行っていたのだが、暑さ自慢の山形だけあって、30度近くに達していた。
さすがに岩手ではそれほどとまではいかなかったようだが、今日もなかなかどうして暑い一日だった。

寒さから遅れていた田植えもなんとか終わったようだ。
僕が暮らす雫石盆地では、水が張られた田の一面に青い苗が浮かび、風にそよいでいる。
これが本当にあっという間に成長して、水面が見えなくなってしまうのだから、植物の生命力にはただただ驚くばかりだ。

田植えが始まると、いつも想い出す人がいる。
大宮春松さんという名のお爺さんだ。
想い出すというのは、春松さんがもう逝ってしまったからだ。

僕は春松さんを見るのが好きだった。
すぐ目と鼻の先に春松さんの家があったから、遊びに行って話をすることもあった。
のんびりとした土地の言葉で、笑顔で話すその姿はいつも懐かしい土の匂いがした。

いつのことだったろう。
確か冬の夜だった。
集落の集まりが公民館であって、いつものように宴会となった。

話し合うべき議題があっての集まりなのだが、たいていの場合、あっという間に話し合いは終わった。
大人の会議というべきものなのだろうか。集落の役員選びや、催しに関することなどが議題なのだが、誰がどうするか、何をするかは、集会の前にすでに決まっていて、たいていは事後承諾によるものだった。
だから、話し合いはすぐに終わるのだが、終わるや否や、台所で控えていたお母さんたちがずらりとお銚子の並んだお盆を抱えて登場し、後は毎回、ひたすら飲み続ける宴会になるのだった。

長老から若い婿さんまで、寄り合いに参加する年齢層は様々だったが、酒が進めば無礼講に近い雰囲気となり、大声で話しながら皆で屈託なく笑った。
僕も、何を言っているのかよくわからないと思いながらも、とにかく笑っとけと笑った。
酔っぱらって舌がまわらなくなり、しかも早口になると、移住者の僕には何のことやらさっぱり、という場面も多かった。
お酒が好きな春松さんも楽しく酔っぱらい、よく昔の雫石のことを話してくれた。

そんな寄り合いもようやくお開きとなって、春松さんと一緒に雪野原に続く道を歩いて帰った。
ほとんど街灯も何もない道を歩いたのだが、雪あかりのおかげで足元はしっかり見えていた。
夜が更けて気温が下がってきたのか、長くつの下でキュッキュッと雪が鳴いた。

春松さんの家の前まで来ると、春松さんはゆらゆら揺れながら、「おらいの家で、もういっぺえやるか」と言って僕を誘った。
もちろん、断る理由は何もない。白い息を吐きながら春松さんの後についていった。

玄関の扉をガラガラと開け、「けえったぞー」と春松さんが大きな声をあげると、奥さんのキミ子さんが迎えに出てくれた。
居間にあがり、春松さんと一緒にコタツに足を入れると、キミ子さんが「じいさん、また酔っぱらって」と言いながらもお銚子を持ってきてくれた。
透明のお銚子にコップ大の杯。それが雫石でのスタンダードだった。

しばらく、三人でとりとめのない話をしていると何かの拍子で春松さんは突然立ち上がり、「かっぱからげて三度笠~」と歌いながら、歌詞のとおりに踊り始めた。
僕にとっては、どこかで聞いたことがあるような、あるいは一度も聞いたこともないような不思議な歌だったのだが、なんだか妙におかしかった。春松さんの一人芝居を見ているような気がした。
キミ子さんは笑いながら、この歌は、「雪の渡り鳥」といい、春松さんの十八番だと教えてくれた。
「かっぱからげて三度笠。どこをねぐらの渡り鳥~」春松さんは幾度となく繰り返した。
雪の、凛とした気配に包まれた夜のことだった。

こんな感じで春松さんはいつも温かく接してくれた。
それでも、僕は春松さんと話すことより、春松さんを見る方が好きだった。

春松さんはとにかく野良に出て仕事をする人だった。
田植えが終わり、ひと段落すると、田の畔の雑草を刈った。
それが済むと、田に入って草とりをした。
田が一段落すると畑の仕事をし、それが片付くと休耕田のはずれに杉の苗を植えたり、土の中で邪魔になっている石を掘り出したりと、何かしら仕事をしていた。
僕の家の窓からは、その様子がいつも見て取れた。
歯を磨きながら、今日の春松さんは何をしているかなと眺め、車で出かける際には草とりをする春松さんの背中を追い越した。

春松さんの農業が今の時代に合うとか合わないとか、収穫したものの質が良いとか悪いとか、そんなことは僕には全くもってわからないことだったが、春松さんの育てたものは春松さんしか育てられないような気がした。

いつかの秋、「今、ついてきたんだ(脱穀してきた)。一日分しかねえけど、食うべか」というキミ子さんから、一日分としては多すぎる量の米をもらったことがあった。
それを炊いてみると、米の一粒一粒がおそろしくつやつやに輝いていて驚いた。
味については、後にも先にもこれ以上の米を食べたことがないと思えるほどの美味しさだった。
毎日毎日、野良に出て働く春松さんの味、そのものもだった。

そんな春松さんがある年、春を迎えることなく逝ってしまった。
一度お見舞いに行ったとき、何を話したのか、今ではどうやっても想い出すことはできないのだが、春松さんはベッドの上で迎えてくれた。ずいぶん痩せてしまっていたが、それでもいっぱいの笑顔をくれた。
生前の春松さんと会えたのはそれが最後だった。

春松さんが亡くなった夜、お通夜に行った。
近所の人たちと棺の前で座っているとキミ子さんが来て、最後に会ってやってくれというようなことを僕に言った。
棺の小さな扉を開けると、目を閉じた春松さんがそこにいたのだが、なんだか春松さんではないような気がした。
それでも涙が出てきて、とまらなくなった。
春松さんが死んで哀しいのとは少し違うような、何だかおかしな気持ちだった。
春松さんのことを好きだったことが上手く伝えられなかったこと、それが悔しかったのかもしれないけれど、何だかよくわからなかった。

そして、僕の家の窓からは春松さんはいなくなった。
春がやってきて、夏の日差しが降ってきて、収穫の秋を迎えても春松さんの姿はなかった。

窓の外を眺めていたある日、僕は喪うということは、失うことだと思った。
今日の今日まで生きていて、次のある瞬間から死んでしまうということ。生きていることと死にゆくことの狭間にあるもの。
その不思議さを説明する言葉を僕は持ち得ていない。

けれど、いなくなること。生きている者の前からいなくなるということ。風に揺れる水田のどこを探しても春松さんがいなくなってしまったこと。それが逝ってしまうということ。春松さんを失った窓が教えてくれたことだった。

春松さんの死が教えてくれたことがもうひとつあった。
それは、いなくなったことに慣れるということだ。

月日が流れていくにしたがい、春松さんの姿が見えない窓の外を見ても僕は探すことがなくなった。
窓の外に広がる雫石の田園は、春松さんがいた頃と変わらず瑞々しく、きれいな風がいつも渡っていた。
それを眺めているうちに、春松さんという名前もめったに出てこなくなった。

ちょうどその頃だった。僕は春松さんがいた集落から少し離れた森の中に引っ越した。
同じ町内でわずかな距離だけど、それを境に僕はますます春松さんがいないことを当たり前に思うようになった。
そして、昨年はキミ子さんも亡くなり、さらに春松さんは遠くなっていった。

いや遠いのではない。きっと、ずいぶんと慣れたのだ。
春松さんもキミ子さんもいない風景に慣れてしまったのだ。

それでもこうして春が来て、田植えが始まり、苗が水田に並ぶと、ふと探してしまうことがある。

田んぼの片隅の水口で水の塩梅を調べていないだろうか。
田のくろに泥を塗りつけていないだろうか。
田の畔に残る石を拾っていないだろうか。
あそこ、草の陰にいるのは春松さんじゃないだろうか。

この答えはいつも同じだ。
僕はもう写真の中にいる春松さんにしか会うことはできないということだ。
ところが、写真というものはいつだって撮り足りない。
写真をやっている限り、もっと、カメラを向ければよかった。ずっとそう思っていくしかないのだろう。

風に揺れる苗を見ながら、あの日、収穫間際の田の中で春松さんの大きな手にシャッターを押したことを想い出している。


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