4月, 2011 Archives

美しい村の祈り

4月 19th, 2011
先日、秋田県南、由利本庄市の潟保(かたほ)という小さな集落で行われた祭りに行ってきた。
祭りは、村を見下ろす高台にある八幡神社の例大祭で、潟保(かたほ)で一番の年間行事である。
厳かな神事、神楽、神輿担ぎ、「おいで獅子」と呼ばれる福招きの儀式など、朝から夕方近くまで村全体を使っての祭りとなる。



いや、わずか一日の行事ではない。
例大祭の本宮は昨日の一日だが、前日には宵宮があり、また、新年一月からすでにその年の祭りに向けての儀式が行われていく。
また、祭りの終わりは祭りの始まりであって、来年の祭りへの受け渡しを意味する神楽獅子の奉納が例大祭の最後の儀式となる。
祭りの執行における事細かな決まり事や儀式などは、なかなか外部から見えにくいのだが、潟保(かたほ)の例大祭は、僕が知る限り、ほかのどんな祭りよりも創造力に富み、かつ美しい。

僕がこの祭りに行くのは今年で二度目となる。昨年、知人から紹介していただき、初めて伺ったのだが、祭りを具現化する営みの奥深さ、美しさにはただただ驚いた。
なんと言えば、いいのだろうか。
細部に神が宿るという言葉があるが、潟保(かたほ)の例大祭は、祭り当日に至るまでの取り決めや儀式が実に細かく行われ、それを積み上げていく行為は、決して大げさではなく人間の創造力の豊かさ、厚みを情緒豊かに物語っていた。
そう、僕ははっとしたのだ。人間が風土への感謝の思いをかたちにするために、時代と世代を超えながら作ってきた行為の厚みに、本当の創造力とはこういうものだと、思い知ったのだ。
そして、この感動は、創造力という喜びを共有できるという人間の可能性の本質を改めて再認識できたから生まれたものでもあった。

今年の例大祭は少し寒かったけれど、天候に恵まれた。
青空の下、大きな声をあげて進む神輿は、担ぎ手が完全に酩酊しているものだから、あっちに行ったり、こっちに行ったり、あてにならないものでどこまでも人間臭いもので、その後を続く村の人たちは皆、笑うしかなかった。
何がおかしいのかよくわからないけれど、やっぱりおかしい。とにかく皆でよく笑った。

行列のしんがりを務めるのが神楽連中と呼ばれる潟保(かたほ)獅子神楽を伝承する人たちだった。
大きな獅子頭を納めた駕篭を皆で押し、高らかに笛の音を響かせた。
笛の音は春風に乗り、どこまでも響いていった。
神輿担ぎのかけ声、笛の音をたどっていくと、田があり、林があり、人が暮らす村があった。
今日は、こうしての潟保(かたほ)周辺は各地で産土の神社で例大祭が行われる。
だから、村の人たちは他所の祭りがどうなっているかはわからない。
それぞれが自分たちの祭りを見つめていた。
それはどこかで、自分や村の営みを大切にすること、足下を見つめていくことにつながっているのかもしれないなと感じた。

東北は本当に美しい。
今の僕の頭のなかには3月11日の津波の映像が片時も離れることはない。現地で見た瓦礫の山も記憶を覆い、そこで膠着(こうちゃく)している。
だからなのだろうか。潟保(かたほ)の美しい祭りを見ていると、胸が締め付けられるようだった。
この地のものがすべてを失ったわけではないといくらかでもほっとした思いにかられたのだろうか。
それとも、やっぱり失ったものの大きさを改めて思い知ったのだろうか。
おそらく、そのどちらでもあって、またそのどちらでもないのかもしれない。
東北は広く美しく、それでも、まだ、津波は終わったわけではなく、僕たちは、そこに向かい続けていかなければならないからだ。

「シャンシャンシャンシャン」「おーおーおー」「声が小せえぞ」
神輿担ぎが鈴を鳴らし、かけ声をあげたとき、神輿のしんがり守っていた若衆が叫んだ。
「シャンシャンシャンシャン」「おーおーおー」
神輿担ぎは顔を赤らめ、酔っぱらいながらもさらに大きな声をあげた。
「まーだまーだ」「おーおーおー」
若者たちの声は張り裂けんばかりで、地面を揺らすようだった。
それでもしんがりを守る若衆が叫んだ。
「そんなんじゃ、岩手まで届かねえー。もっともっともっとだー」
すると神輿担ぎたちが答えた。
「よーっし、岩手まで、三陸まで、声を届けるぞー」
「おーおーおーおー」

「救援物資」、「義援金」、そして「ひとりひとりでできること」。
被災していない僕たちには、被災地に対し、形あるものにこだわっている。
確かに思いだけではどうにならないし、被災地が必要としているのは見えない思いなどではなく、まさに今、その場で役に立つものなのだろう。

でも、こうして遠い場所から声を張り上げ、応援している人もいる。
どんなに大声をあげてもそれが被災地に届くことはないだろう。
でも、僕は、この声を聞いたとき、これもまた本当に大切なものだと心の底から思った。
それはこの潟保(かたほ)たちが風土への感謝という見えないものを、祭りというかたちで見えるものへと創り変えることに成功したように、見えない声のなかに人間の優しさや暖かさ、何より想像力と創造力の本質があるように思えてならないからだ。
そして、こうした力は、被災地の人たちがこれから最も必要とする生きるためのエネルギーだと思えてならないからだ。

神輿担ぎの声を聞きながら、僕は後方にいる神楽連中に目をやった。
獅子神楽を務める池田さんが少し長い髪を春風になびかせ、穏やかなまなざしで神輿を見つめていた。その隣には獅子の道化役である「才蔵」を務めるヤマト君が隣に立つお父さんによく似たまなざしで、やっぱり神輿連中を見つめていた。
さらに後ろへと目をやると、満開になろうとする梅の木があった。
本格的な春がもうそこまで近づいている。
僕はなぜか、この春だけはきっと生涯忘れないだろうと感じた。



それぞれの人がそれぞれの地で大切な営みを続ける。
今の僕たちが忘れてはならないことを潟保(かたほ)の祭りは静かに物語っていた。

※潟保(かたほ)の祭りは、北東北エリアマガジン「rakra」誌上で連載中の「祭りの余韻」3.4月号でもご紹介しています。
ご興味のある方はそちらも合わせてご覧ください

ウエブページ:Atsushi Okuyama Web
ブログ:From The Darkroom

瓦礫の素足

4月 14th, 2011
福島県相馬から青森県八戸まで、太平洋沿岸を北上した。
費やした日数は約1週間。車で寝泊まりしながらの旅だった。

目的は、沿岸に暮らす知人を訪ねることと、津波に吞まれた土地を見つめることだった。
帰宅したのは6日のことだったが考えることが多く、なかなか言葉にできないでいた。
すぐに言葉にすることはできるのかもしれないが、インプットとアウトプットの間を縮めて良いものと、悪いものがあり、僕にとって、今回の旅は後者だった。
浮かび出た思いを打ち消し、あるいは補い、転換し、再び始めまで戻ってという作業を繰り返した。

もちろん、今回の震災をすべて見たわけではない。震災後、約3週間を経ての旅だったし、被害を受けた町をつぶさに見たわけでも、何かの研究テーマがあったわけでもなく、被災者一人一人の声をうかがえたわけでもない。

いわば、物見遊山としての行動にすぎない。
実際、旅で得た情報量としては、巷にあふれるメディア報道と比べるべくもなかった。
この結果は最初からわかっていたことだが、それでも東北という風土に起こったことを僕なりに見ようと思った。

現実を伝えるにあたり、写真も映像も言葉も、そのすべてが現実に対し「足りない」ことはメディアに身を置く僕自身も痛感し続けていることだからだ。

伝えれば伝えるほどに遠ざかるものがあり、克明に記録すればするほどに漏れるものがあり、言葉の質を極めれば極めるほどに狭められるリアリティーがある。
もし、表現のプロというものが存在するならば、このパラドクスを常に自分の中に抱き続け、そこに真摯に向き合うことができる者だろうと思ってきた。それなくして、安易で、先入観や既視感にまみれた表現から抜け出すことができないからだ。
そして、すべては、かの地に立ち、土地の空気を吸うことからはじまると信じている。

沿岸の風景は、報道の通りだった。
場所によっては、町そのものがぞろっと津波に持ち去られ、瓦礫だけが地面を覆っていた。
とくに牡鹿半島から志津川にかけては、津波のパワーが段違いで、女川など、そのパワーによって街全体が木端微塵に吹き飛ばされた感があった。
人間の思慮など軽々と越える自然の力。この星に暮らす上で最も大切なことを、いつしか忘れてしまっていたことを思い知らされた。
それを僕に気付かせたのは、津波の惨劇の向こうにある海だった。

瓦礫の先では、青い海が広がり、陽光を跳ね返していた。
美しく穏やかな海。人間がこれほど傷つき、悲痛を味わっている先で、自然は穏やかに笑っているように思えた。

女川の惨劇を目の当たりにした後、車を進めて、高台に向かった。一艘の漁船が女川の湾内に入ってきているのが見えた。

漁船は何一つ迷うことなく、港湾施設も何もない港に進んでいた。
船は白波の尾をひき、海と陸地をつなげる道を作っているようにも思えた。
しかし、その道も次の瞬間には消えてなくなっていた。青い海だけがあった。

世界はこれほど美しいのに、人間は何と寄る辺ない存在なのだろう。
瓦礫に花を手向け、背を丸めたまま動かないでいる人、ふらふらと夢遊病のように廃墟となった町を歩く人、ひたすら泥と格闘する自衛隊員。津波の町の光景が急にありありと思い浮かび、今までにない感情が湧きおこってきた。

悲哀でもなく、怒りでもなかった。何とも言い難い悔しさ。この世界に生き続けていなければならないことへの悔しさ。
僕自身、被災したわけでなく、家族を失ったわけでも、家を流されたわけでもない。
被災された方の悲しみを自分のこととして生きていくことは正直なところ、難しい。
そんな僕にとって、おそらく、この「悔しさ」だけが感じ得ることのできる、嘘偽りのない感情だったかもしれない。

寄る辺なき世界に暮らす悔しさは、海沿いを北上し、新たな町を訪ねれば訪ねるほど募った。
どこの町へ行っても津波の前で成す術もなかった人間の暮らしがあった。
避難所では「津波に負けない」という自らを鼓舞する貼り紙を目にすることも多かったが、そういう人間の感情もひっくるめて、自然の手のひらの中で生き続けるしかできないのだろうと、思うしかなかった。

旅は、僕は宮沢賢治が遺した言葉について、思い起こす時間でもあった。
賢治が繰り返し書き続けた「逝く人」と「逝かざる人」のあわいにあるものについて、津波が突きつけてきたからだ。
なぜ、逝ってしまったか。なぜ生き残れたか。津波の爪痕は問いかけ続けていた。

潮と泥が入り混じった不思議な匂いに覆われた大槌町に着いたとき、かろうじて残った大きな建物の屋上に上った。より高く。目指したのは屋上のさらに上に設けられた空調用の建屋だった。梯子をよじ登り、建屋の上に立つと、津波後の火災で焼け野原と化した町が眼下に広がっていた。さっきまでは青空が見えていたはずだったが、雪が降り始めた。静かに降る雪が瓦礫を白い山に変えていく光景は、異様な静けさと見たこともない無機質さに満ちていた。そして、降る雪の向こう、瓦礫の中を歩く人がいた。
その人は何かを探しているようだったが、ただ、歩いているようにも見えた。足取りは重くもなく、軽くもなかった。
「ひかりの素足」。頭のなかにはあの悲しい物語が浮かんだ。

炭焼きをしているお父さんのいる山に手伝いにきたその帰路、一郎と楢夫という名の幼い兄弟は吹雪にあい、遭難してしまう。
迷ったことに気付いた兄弟は必死で帰り道を探すが、吹雪は二人の希望をはぎとるかのように激しさをます ばかりで、次第に兄弟はどうすることもできなくなっていく。
進むことも戻ることもできなくなった兄弟は、雪のなかで毛布にくるまり、ただただ抱き合う。

どれくらい時間がたっただろうか。
兄弟はやがて、目を覚ますが、そこは現実の世界ではない。
やつれはてた子供たちが鬼に追い立てられる地獄で、二人は、その子供たちの列に加えられてしまう。
一郎と楢夫をはじめ、子供たちは皆、足に深い傷を負っているが立ち止まることは許されない。
転び、泣き叫ぶたびに、鬼の鞭が容赦なく子供たちを打ち続ける。

兄弟は歩き続けるが、あるとき幼い楢夫は石につまずいてころんでしまう。
鬼はそれを許さず、鞭で打とうとするが、一郎は楢夫をかばい、鬼の手にすがって言う。
「私を代わりに打ってください。楢夫はなんにも悪いことがないのです」
しかし、鬼は、「罪は今度ばかりでないぞ。歩け」と、一郎の手ごと激しく鞭を打ち付け、地獄の荒野を進むことを要求する。

幼い兄弟である。当然、罪らしい罪は犯してはいない。賢治も兄弟が何の罪を犯したか、語ることはない。
にもかかわらず地獄の苦しみが二人の前にあるばかりだ。
兄弟は再び子供たちの列に戻り、地獄の中を進み続けるが、とうとう幼い楢夫は気力の限界に達し、泣き出して一郎にすがりつく。
鬼はそんな楢夫には非情に振るまい、「歩け」と鞭で打つ。
一郎は楢夫を抱いて、必死でかばいながら「楢夫は許してください。楢夫は許してください」と泣いて叫ぶ。
それでも鬼は「歩け」と怒鳴るのだが、次の瞬間、一郎の耳に「にょらいじゅうりんぼん
第十六」という言葉聞こえてくる。
一郎は、その言葉を聞いたとたん、気持ちが楽になったように思え、自らも「にょら
いじゅうりんぼん」と繰り返しつぶやく。

すると、一郎の前に、ひかりの素足を持つ人が現れる。その素足は、燃え上がる赤い火や、鋭いメノウのかけらを踏んでも傷ひとつ付かない。
一郎は、光る素足がまぶしく顔さえあげることができないが、「こわいことはないぞ」という、その人の言葉を全身で受け止める。

気がつけば、鬼もほかの子供たちにもみんなで手を合わせ、その人のまわりに集まっている。
ひかりの素足を持つ人は、集まってきた者たちに、「こわいことはない。おまえたちの罪は、この世界を包む大きな徳の力にくらべれば、太陽の光とあざみの刺のさきの小さな露のようなもんだ。なんにもこわいことはない」と気持ちを慰め、「みんなひどく傷を受けている。それはおまえたちが自分で自分を傷つけたのだのだぞ。けれども何でもない」と続ける。
そして、さらに「ここは地面が剣でできている。お前たちはそれで足やからだをやぶる。そうお前たちは思っている、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ。さあご覧」と、世界の真理を伝え る。

次の瞬間、一郎たちがいる世界は地獄から極楽へと変わる。
子供たちの負っていた傷はにわかに治り、誰もが美しい着物をまとっている。
楢夫もお菓子をもらい、元気を取り戻す。
一郎と楢夫が歩かねばならなかった荒野は、そこを通り抜けることで天上へとたどりつく煉獄だったのだ。

しかし、一郎はここで楢夫とここで別れなくてはならない。
「お前にもう一度あのもとの世界に帰るのだ。お前は素直ないい子供だ。よくあの刺の野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたお前の足は、いまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができる。今の心持ちを決して忘れるな。お前の国には、ここからたくさんの人たちが行っている。よく探して本当の道を習え」とその人は一郎に語りかける。

この言葉を聞いた後、雪の中で一郎は目を覚ます。救出にかけつけた村人に起こされ
ながら、一郎は抱いていた楢夫に目を移す。
一郎の眼に映った楢夫の頬はリンゴのように赤く、その唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまま、かすかに笑っていたようにも見える。しかし、「。けれどもその眼はとじ、その息は絶え、そしてその手や胸は氷のように冷えてしまっていたのです。」と物語は終わる。

人間は果たして誰もが現在と呼ばれるものを持っているのだろうか。
人間には善人と悪人が存在するのだろうか。
天上と呼ばれる場所、地獄と呼ばれる場所が存在するのだろうか。
何よりも人の生き死にの行方が、生き方によって左右されるのだろうか。
そして本当に煉獄を通ることで救われるのか。

賢治はこれらの問いに答えることはないし、僕などは知るよしもない。
しかし、厳然たる事実として、この世界には、寿命でなくなる人がいると同時に、人生半ばで逝く人が存在する。
この事実が存在するのは当然、災害時だけではない。これこそが僕たちの日常でもある。

では、僕たちはこの不条理から何を得るのだろう。
何かを得ると何か失う。
僕はこのことを信じてきた。今も信じている。
しかし、生まれ育った町も家も家族も何もかも失った人が、それらと引き換えに何を得ることができるのだろう。
両の手で抱えてもこぼれ落ちるほどの良きものを、得ることができるのだろうか。
僕はこの問いの前ではただただ黙してしまうしかない。
本当に大切なものの代わりになるものなど、きっと、どこにもない。
探し続けても見つかりっこない。
「みんなひどく傷を受けている。それはおまえたちが自分で自分を傷つけたのだのだぞ。けれども何でもない」という賢治の言葉のようには「何でもない」とはいかない。

でも、それでも、人は生きていかなくてはならない。
ずっと生きて、代わりを見つけられなくとも、自分の生きる場所を見つけていかなくてはならないのだろう。
もし、それを成し得たとき、人は、「ここは地面が剣でできている。お前たちはそれで足やからだをやぶる。そうお前たちは思っている、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ」と思うことができるのだろうか。

被災したわけでもない僕たちにできることはあまりにも少ない。
でも、すべてを失ってもなお生きていこうとする人たちの力を見つめていくことを忘れてはならないと思う。
それは、僕たちは人の力を、瓦礫で傷ついた足が治癒し、強くなることを信じているからだ。




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