1月, 2011 Archives

毎年、小正月が来ると、秋田豊岩にやまはげ行事を訪ねる。
今年で三年目。

やまはげの内容としては、男鹿のなまはげを想像してもらうといいだろう。
山から荒ぶる神である「やまはげ」が降りてきて、里で少しばかり乱暴し、子供に親孝行をするように諭したり、老人に達者で暮らすようにとねぎらったり、酒っこでもてなされたりして、夜が更けると雪の山へ帰っていく。

僕はこの行事にいくと、人間の持っている想像力と創造力の豊かさをしみじみと思う。

人の暮らしとはある意味、繰り返しの積み重ねだ。
朝は毎日やってきて、夜も毎日やってくる。そのなかで人はある程度の決まり事なかで暮らす。
単調であることは悪いことではないけれど、ときに刺激を求めるのもまた人の常だ。

祭りとはそうした日常のいわば特異点といえばいいだろうか。
日常の常識とはまったくかけ離れた出来事が次々と起こる一日、それが祭りというものだろう。

暮らしにとって祭りが大切である理由は、単に刺激をつくるからでは決してない。
非日常の空間を作り出すことによって、普段忘れかけていた心の持ち方や、森羅万象への感謝や畏怖を深々と思い出させてくれる。
それが祭りの祭りたる所以だ。

やまはげとはまさにそういう存在だ。
人間の利益勘定とは異なる価値観を持った山の荒ぶる神が身近にいること。
それは日常では見えない世界が確実にあるということを子供たちに知らしめ、大人もまた、やまはげを演じることによって、人智を越えた世界があること、それを信じるという行為を再確認するのだろう。

そして人の想像力の豊かさを感じるは、こうしたやまはげの空間を現実に生み出すために作り出した行為のひとつひとつがきめ細かくかたち作られていることだ。
なぜ、やまはげが山から来るのか。なぜ、やまはげの装束を藁で作るのか。集落を廻る際になぜ、端から周り、合計2度やってくるのか。
その理由をひとつひとつとってみるとおぼろげであるが、すべてに意味があり、すべては「やまはげ」という存在にリアリティーを持たせることに必要なプロセスである。

そう考えると現代という暮らしはなんとやせ細ったものなのだろう。
畏怖もなく闇の恐怖もない代わりに、心踊らせるような幻想も存在しえない。
そして、何よりもこのようにして、やまはげに解釈のらしきものを加えて、さもわかったような顔をすること自体が最も現代的で最もつまらない行いといえるだろう。

小正月の夜、雪の山からやまはげが降りてくる。
やまはげが何の神様なのか、何をするために里に降りてくるのか誰も知らない。
ガタン、ゴトンと扉がなって、びゅうという一陣の風とともにやまはげがのっそりと家の中に入ってくる。

ウオーウオーと聞こえるやまはげの荒々しい呼吸音と、「親孝行しねえと、山さ、連れて行くぞぉ」という叫び。
やまはげとは、ただ、ひたすらに恐ろしいものなのだ。
そして、しばし家の中で暴れた後は、何も言わずに再び雪の戸外へと出て行くやまはげ。
人間はそのあっけらかんとした振る舞いにただただに呆然するしかない。

その不思議さ、つかみどころのなさこそがやまはげなのだ。

この不思議さに輪郭が生まれるのはどのくらいたってからだろうか。

それは一人で山に行勇気が持つ年頃になってからだろうか。

それとも、ふとしたときに、父と手のつないだ瞬間だろうか。
あの夜、鼻を流して泣きながら、「親孝行します。絶対にします」と叫んだ後に差し出されたやまはげの手のひら。

その手触りが、指の形が、今、自分が手にしている父の手と同じぬくもりを宿していることに気づく瞬間だろうか。

来年もまた雪の山からやまはげがやってくるだろう。

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雪の中へ

1月 13th, 2011
2011年がいよいよはじまった。
年末年始は、撮影をして、言葉をつづり、暗室でのプリントといった日々。
今の僕の生活はこれ以上でもこれ以下でもない。だからこそ、ひとつひとつを丁寧に、そして見過ごしていたものを新たに見つめなおすことを大切にしたい。

今シーズンの東北は大雪と伝えられている。
青森酸ヶ湯では積雪3mを越えたという。
僕が暮らす雫石は、1m程度ぐらいだろうか。
ただ、根雪というものは天気気温いかんによって、短時間で大きく変化するので、正確な数字はわかりにくい。
いずれにしろ、今年の雫石の雪は例年通りといったところか。

この時期、犬の散歩にはスノーシューを使う。
時間が許す限り、朝、夕方と1時間程度づつ、雪の中をスノーシューで歩く。

今年で僕の犬は10歳になる。10回の冬、飽きもせず雪の中を歩いてきた。
「スノーシューをはきつぶすなんてあまり聞かないですね」と以前、アウトドアショップに言われたが、今履いているスノーシューは三代目。
修理を加えながら大切に使っているのだが、毎日の使用でどうしても痛んでしまう。

雪の中を歩く。
今の僕にとっては日常の時間ではあるが、やはり、雪の森や野原はどこか意空間の気配がある。
雪の表情ほどめまぐるしく変わるものはない。
雪の粒の大きさ、落下する速度、粒の密度、色、手触り…。何をとってもいつも異なる。

それをいつも写真に撮りたいと思う。
しかし、雪ほど繊細なものはなく、なかなか僕の腕では捉えきれない。

写真には撮れないものがたくさんある。それを知ることが写真家として必要なことで、写真はそこからはじまっていくと思っている。
僕にとって、雪とはまさにそんな存在。
これほどまで目に見えるものなのに、写真にすると、その存在の在りようするりするりと逃げていってしまう。
何より、雪が人の心に入り込んでいくことをどうやって撮ればいいか、今の僕には方法が見つからない。

雪野原を歩く。次第に強く降ってくる雪。視界はぼんやりとして、何もかもが遠のいていく。
そんなとき、雪は心のなかに入り込んでくる。
心の中は次第に真っ白になっていって、ぼんやりとした風景とは逆に、すっきりと透明な気配に包まれる。

何かを悟れるとか、そういう大げさなことではない。
ただ、気持ちがすっと伸び、白く晴れていくだけだ。
短い雪の中の旅が終われば、心の中の雪は春を迎えるようにとけて、跡形もない。
そんなものだ。

いつか、長い長い雪のたびをしてみたいと思っている。
どこまでいっても心の中の雪が消えることがない旅。
この土地に暮らしている喜びを再発見できるのではないかと思っている。

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