12月, 2010 Archives

雪の街へ

12月 21st, 2010
ふたたび雪の話。
ちょうど雪が降った朝、新幹線で仙台に向かった。先日の18日のことだ。
雫石の僕の自宅では雪かきが必要な積雪量だったが、盛岡では15cm程度。それでも、まとまった雪は今年初めてのことだった。

盛岡はきれいな街だとよく言われる。
北上川、中津川という清流が街の中心を流れ、緑が多く、古い建物もまだ健在だ。
街を流れる空気もどこか穏やかで、落ち着いたたたずまい。
四季はいずれも美しいが、地元の人は、口をそろえて、新緑が萌え、清流が輝く初夏から夏が一番好きだと言う。
春もいいけれど、こちらの春風はなかなか手ごわい。ときに雪を降らせることもあるからと。

でも、僕はやっぱり冬の盛岡が一番美しいと思う。
とくに早朝、真新しい雪をかぶった街の静かなる美しさは、北国の持つ魅力を存分に語りだしてくれる。
街の喧騒も、人々の活気もすべて包み込み、どこまでも冷たいようでいて、なお暖かい、そんな風景だ。
朝の盛岡駅から見る風景はまさにそんな感じで、いつまでも窓越しに眺めていたいような気持ちとらわれた。

でも、残念ながら新幹線は定刻通りに出発し、南へと走り始めた。
車窓からはしばらく雪の風景が続いていた。

薄い雪雲が空を覆っているからだろうか。
陽光さえもどこか凍りついたようにぼんやりとしている。
田園に家が点在し、ゆっくりと走る車、電信柱、林…。車窓はいろいろなものを置いこして先へ先へと走っていく。

ふと、ある写真家のことを思い出す。若い女性なのだが、車窓から見える風景ばかりを撮っている。
車窓からの景色といっても、テレビに人気番組のような風景ではなく、車窓の先に連続する普通の風景だ。人がそこに暮らしているというもの。
彼女は、自らの写真行為について、列車に乗っているとどこまで行っても人が住んでいることに気がついた。
それが驚きに近いようなものに感じられて、車窓から写真を撮り始めたと語った。
彼女が見せてくれた写真には、おそらく撮られていることにはまったく気づいていない人の姿や、人の暮らしを感じさせるシーンが淡々と在った。
そして、それらの写真は、撮る者と撮られる者の距離感覚を妙にリアルに感じさせるた。
手が届きそうで届かない世界。奇妙な現実感と幻想感が写真をめくるたびに強くなった。

確かに車窓とは不思議なものだ。
たった一枚のガラスがそこにあるだけで、こちらと向こうに線引きされる。
空間だけではない。人の感覚まで遠くなる。ガラスの向こうは、まさに別世界に思える。

雪の街を行く新幹線の窓はまさに遠い世界を映していた。
もし、雪を知らない人がこの風景を見ていたらどう感じるだろうか。
雪が冷たいとは当然知らないわけだから、白い砂か何かとでも思うのだろうか。
それ以前にその幻想的な風景に、ただただ感動するのだろうか。
思えば、僕自身がそうだった。
もちろん僕は雪を知っていたけれど、寒いとかそういう前に、雪が作り出す幻想的な風景にただただ見とれた。

12年前の日々を思い起こしながら、車窓の先の雪景色を見ていた。
しかし、幸福な時間にも終わりがやってきた。
水沢あたりから雪が減り始め、一関まで来ると、雪よりも土が占める面積が多くなった。
そして県境を越え、宮城に入ると、そこで待っていたのは、茶褐色の田園だった。
さらにしばらくすると、列車は仙台の大きな街の中へとすべりこんでいった。

仙台の街を歩いていると、ほんの少し前まで雪の世界にいたことを不思議に感じた。
雪の冷たさも雪景色の質感も匂いもどこか遠くに置いてきてしまったはずなのに、なぜか雪の姿が見えるような気がする。
これは岩手に生まれ育っていない僕でもそうなのだから、きっと、雪を見ながら育った子供たちであれば一層のことだろう。
きっと、遠い砂漠の地に赴いても、そこに雪の匂いをかぐことができるに違いない。

最近、ある雑誌の仕事で東北の孫と祖父母を撮りはじめた。
被写体は、知り合いに紹介してもらうことが多い。ゆえに撮影日が初対面となる場合も少なくない。
それだけに、僕が写真を撮る上で考えたり、コントロールできるのは、どういう風景で撮りたいかということ。
できれば、この土地の今、この土地の在りようの前で撮りたいと思っている。
そんなことを考えたりしているうちに自然と思いは「風景とは?」という問いにたどりつく。
個人にとって風景とは何だろうか?それは言いかえれば、風土が人に何を与えるかということにつながっていく。
人にとって風景とは単なる目の前の世界と考えれば、あれこれ思い悩む必要もないのだけれど、今の僕には風景とは人それぞれに深い影響を及ぼすものと感じている。

世界には聖地と呼ばれる場所がある。
聖地とはたいていの場合、人の営みのなかで自然発生的に生まれた場所で、時を重ねるつれてより重要度が増していったところである。
そこにはきっと、簡単に言葉では表現できないような土地の力があるのだろう。
おかしな言葉でスピリットやオーラなどと語る必要もなく、誰もが何かを感じ取れる場所と言えばいいだろうか。

聖地あるいは拠り所とまではいかずとも、おそらくだれもがそういう場所を持っているのかもしれない。意識する、しないを関係なく。
そして、そこからきっと、大切な何かを得ることもあるし、しがらみに近い束縛も受けるかもしれない。
それでも、風景を持っていることはやはり幸せなことだと素直に思う。

もし、風景を持たない人がいるとしたら、僕は雪の風景を見ることを勧めるだろう。

雪はいつも新しく、新しい世界を登場させてくれる。
誰もが白く真新しいその土地に名前を付けることができる。

雪の記憶

12月 9th, 2010
雪が降り始めたので、犬を連れて岩手山の麓に広がる野原に行った。
ちょうど、今月末に発売される雑誌のグラビアでこの土地の「雪」の世界について紹介することになり、
雪について思いをめぐらせていたときだった。
空から降って来る雪を見ていると、無性に雪の中を歩きたいと思ったのだ。

野原につくと数センチの雪が積もっていた。
そこを歩く。カサカサと草が鳴る。大気の冷たさから草が凍えているのが伝わって来る。

さらに歩く。時刻は4時過ぎ。
次第にあたりは暮れていく。

そこから先の雪の変化が好きだ。白から透明な青へと移り変わっていく。
すると、風景もそれに呼応するかのように変化していく。

それを見ている思考は少し抽象化すると言えばいいだろうか。
視界も遠近感を失っていき、視界のなかで林も野原もぼんやりと青のなかに溶け込んでいく。
しかし、厳冬期の吹雪を歩いたときに覚える浮遊感を迎えるには、まだこれぐらいの雪じゃ、足りない。
青い世界から足元に目を落とせば、大地の凹凸を足裏が感じている。
すべてが雪に包まれているという感覚に至るには、もっともっと激しい雪が必要だ。

この地を語る場合、「雪」は欠かせないと思っている。
たとえば、生活のリズムは冬に重きがおかれる。
冬にたくさんのやるべきことがあるのではなく、冬のために夏にしなくてはならない仕事がある。
もちろん、今と昔は違うわけで、冬の備えをするために一年のほとんど費やすいうことではない。
今の実際の生活を考えると、冬だからといって特別な生活があるのでははない。
豪雪地帯は別にすると、都市部なのではむしろ変わらないことの方が多い。
気を使うのは車の運転ぐらいだ。

それでもこの土地の人々は常に雪を意識している。
様々なシーンで、「雪が来る前に…」という言葉が交わされる。
「雪が来たら…」「冬が終わったら…」「冬の間は…」
表面上の生活は変わらなくても、精神的に冬は依然として大きい。

人の心に居座る雪の大きさをなぜだろうとずっと考えてきた。
明確な答えはなかなか出てこないが、この地では、人の心に雪が降るからだと思っている。

生活が変わり、雪に閉ざされることもなくなり、そもそも降雪量自体が大幅に減った。
それでも、この土地の人の心にはたくさんの雪が降る。
その結果として、常に雪を意識し続ける。

これは記憶だろうか。先祖代々、ずっとこの地で生きてきた記憶。
本来、記憶とは個々のものであるはずだ。
でも、人間は別の人間の記憶を共有できる生き物ではなかろうか。
とくに親や兄弟といった身近な人間の記憶は、何度も聞いているうちに本人の記憶に混ざり込んでいくような気がする。

以前もこのブログで書いたことがあったが、僕は北海道で独り暮らす弁造さんという人を10年以上、撮り続けている。
今年で91歳になった。
この弁造さんのところに行くと、ひたすら話を聞く。ほとんどが昔話で、ほとんどがすでに聞いたことのある話。
それでも、とにかく聞き続けている。
それを繰り返しているうちに、ちょっと不思議な出来事が起こっている。
僕のなかに確かに「弁」と呼ばれた少年が妙なリアリティーを持ってみえるのだ。
とくに弁造さんの幼少時代の話を聞くことが最近多いからなのかもしれないが、僕のなかにはっきりと、少年「弁」が住み着いている。
つまり、弁造さんの記憶が僕のなかに書き加えられたのだ。

こうして他者の記憶を共有するということで、何が生まれるか、あるいは何の意味があるのか、それはわからない。
しかし、ことあるごとに「弁」の存在が僕のなかで顔を出し、「弁」が生きた時代と今とを比べてしまうのだ。

だから、雪を見ると、僕は自分の記憶としての雪を思い起こすのと同時に、
子ウサギをもらえると聞いたために吹雪のなかをとなりの集落まで歩いていく「弁」を想像できるのだ。
そして、子ウサギの小さな穏やかな火の玉のような体温を両手で抱え、それを懐に入れて、吹きつける雪の中を歩いていく姿も。

人の心に降る雪とは、近しい人、あるいは長く伸びるひもの先をたどっていくと突き当たる遠い祖先の記憶のかけら、
なのだろうか。

明日はもう少し激しく雪が降るという。
早朝から津軽に向けて出発することになっている。