11月, 2010 Archives

冬の光

11月 29th, 2010
今年の冬は、雪が少し遅れている。
例年の雫石であれば、11月中に一度、30センチ程度の積雪があり、それが一度とけてから本格的な降雪がはじまる。
しかし、今年はちらつく程度で、積雪らしい積雪はなかった、と思ったら、今朝、起きると雪が降っていた。

雪はいつだって新しい感情を生み出す。
僕は、この地で生まれたわけではないのだが、もう10年以上雪を見てきた。
それでもいつも新しい。

一面の野原も林もすべてが雪に覆われている。
今日は暗い空から降ってきた雪だったからだろうか。
白というよりも灰色を帯びた雪。
それはどこか陰鬱な雰囲気を宿しながら重く心のなかに降って来るように思えた。

朝の日課。犬と一緒に散歩に出かけた。
犬と二人、足跡を残しながら、林や雪の草原を歩く。
今日はあえてカメラを持って行かなかった。

撮ることは今の僕にとって、ほとんど生きることと同義だ。
でも、シャッターを見る前に、まず強く見ることが大切だと思う。

先日、大阪在住の知り合いの写真家から、写真家は撮るにあたって抱くべきイメージの強さが足りないのではという話をした。
「絵描きは真っ白なキャンバスに向かって描く。無に有をもたらすイメージの強さは、まさに何を描くかという強さのあらわれだと思う。俺たち写真家は、押せば写るということを前に、イメージを強く持つということを忘れていないか」。彼はそう言った。

この言葉を聞いて以来、イメージする強さについて思いをめぐらせている。
彼の言葉へのアンチテーゼではないけれど、写真はイメージを越えたものでもあると感じてる。写真家が持っていたイメージを軽々と越えるものが、現実のなかにあって、写真家はそれに感応してシャッターを押す。それは絵画に比べイージーであるかもしれないけれど、写真の本質にかかわるイージーさでもある。そう考えたら、予めのイメージなんてものはそこそこのものでも構わないはずだ。

でも、とも思う。
やっぱり何を見たいか、何を感じたいか、何を追い求めたいのか。それは写真を撮るに必要なことであり、また生きていくために必要なことなのだろう。
彼が言いたかったことは、「本当に見たいもの、それを越えるもの見つけるための準備としてのイメージの強さ」だったのだろうか。
シャッター以前とは、そういうものなのかもしれない。

薄く積もった雪を少し蹴飛ばすと地面があらわれた。
そこには、まだまだ緑を残した草がゆるやかに伸び広がっている姿があった。

それはほんの数日前、冬の柔らかな陽光に照らされていた草たちだった。
僕はたしかに、犬の桜と一緒にここで、この草たちと一緒に、太陽から届けられる光を浴びたのだった。
そのときの陽光は、まるで白い火の玉のようになって、草原の向こうのさらにその先の林で、ゆっくりと昇っていくところだった。

いつもあるはずの光であるが、今日は鉛色の雲のなかで存在すら感じさせない。
光でさえも永遠ではない。
ものごとを理解するのは、いつもそれが過ぎ去ってからだ。

新しくやってきた雪の季節。
僕はそこに何を見たいのだろうか。

11月の闇

11月 4th, 2010
いよいよ紅葉の季節も終わりに近づいてきた。
この時期、森を歩くと落ち葉で靴がみえなくなる。
一本一本の木々の枝についた葉が、これほどまで大量のものだったのかと目をみはる。
これが毎年繰り返されるのだから、大地と木々のエネルギーの旺盛さはすさまじいほどだ。

一方で、そのあっけなさにもついていけないような思いを抱く。
春を迎え、一斉に芽吹いた無数の葉が秋を迎えると、言葉通り、一枚の葉も残さずさっさと散りゆく。
そこにもののあわれを感じる間さえ、与えてはくれない。

そして、この地が迎える11月の闇。
11月は、どこか哀しさが漂う。凛とした冷たさを宿した風は、冬の雪風を浴びるよりも寒く感じるときがある。
まだ、身体は夏の名残をひきずっているのだろう。
しかし、11月の哀しさは、寒さではないような気がする。

11月は闇が長い。そして黒々と濃い。
鮮やかな錦秋が去って、森の木々は眠りにつく。
太陽はその眠りを妨げないようにと早々と山の向こうに隠れてしまう。
天気が少し悪ければ、3時も過ぎれば薄暗くなり、4時半を迎えると、森は一気に闇を迎え入れる。
5時を過ぎると、墨で塗りつぶしたかのようなしっとりとした闇に包まれる。
11月の哀しさは、この闇をなかなか受け入れることができないからだと思う。

しかし、自然とはよく考えられたものだ。
12月になると、雪が本格化する。11月の闇でどこか沈んだ人の心にも真っ白い雪が降りてきて、明るさが満ちる。
あれほど長い闇を保っていた森も、積雪となれば、眩さを爆発させる。
陽光で光る雪の白は、空に浮かぶ太陽を見るようで直視することすらままならない。

そして、闇も姿を消す。雪の森はどれほど夜が進んでも青さを深めるばかりで、闇にたどり着くことはない。
森の木々は深い藍のなかにたたずみ、月明かりのなかでときおり漂う。

北の暮らしとは、こうした自然の変化を当たり前のものとして自然と受け入れることだ。
おそらく、ずっとこの土地に暮らしてきた人は、11月の闇も、12月の明るさも、きっと心の中で起こっている変化のように捉えているのだろう。
闇について、雪について、あらためて、口にすることがないのはきっとそういう理由からだ。

岩手に暮らして12年。僕も自然の移ろいに心を沿わせたいと思ってきたが、まだまだ、それができない。
いまだに11月の闇に目を凝らし、12月の森の明るさに目を細める。

この文章を書いている現在の時刻は15時16分。
今日の雫石の空には雨雲がせわしなく飛び交っている。
もうすぐ深い闇がやってくる時間だ。