7月, 2010 Archives

梅雨明け

7月 20th, 2010

待ちに待った梅雨明けとなった。
北東北に暮らしていると「梅雨明け」という言葉にとても敏感になる。
かつて暮らした関西、東京では、梅雨明けにはあまり意識しなかった。
というのは、梅雨は時期がくれば自然と明けるからだ。

北東北という土地では、この「自然に明ける」ということがいかに難しいか。そのことに気づいたのは、岩手に移住して数年ほどたった頃だろう。
理由は簡単。梅雨が明けないからだ。北日本なので、梅雨入りは少し遅めだが、一旦、梅雨に入ってしまうと、簡単には明けてくれないのだ。
僕が暮らす雫石は字のごとく「雨の下の石」。雫石だけが局地的に雨が多いのかと思ったりしたこともあるが、天気予報を見る限り、それは気のせいに過ぎない。
関東はとっくの昔に梅雨明けしたのにも関わらず、梅雨前線は、北東北付近を気まぐれに上下し、雨の日が続く。
その状態がとにかく長く続くのだ。

当然のことながら、北東北の夏は短い。なんとなく雨続きの日が積み重なって、そのままお盆となり、一気に秋が深まっていく。
そんな夏を移住してからのたった11年間のなかで何度経験したことだろうか。

関西出身ということも関係しているだろうが、こんな感じだから、僕はことあるごとに「東北に夏はない」と宣言している。
澄み渡った青空に入道雲がもくもくと沸き起こる光景を見ることは皆無に等しいのだから。

では、岩手の夏はつまらないのかと問われると、決してそんなことがない。
僕がいつも静かに感動するのが長く続く夕方だ。

北東北は緯度が高く、冬の日照時間は少ないかわりに、夏の日照時間はとにかく長い。
夏至付近であれば、時計の針がまだ夜中であっても空は白みはじめ、日没もじつにのんびりと進む。この時期の光は独特だ。




とくに僕が好きなのは夕方の光だ。
傾きかけた太陽がまるでその脚を止めるかのように山向こうに居座り、圧倒的な量の金色の光を送って寄こす。
この光を浴びたものの美しさは例えようがない。人も犬も自転車もころがる石ころさえも暖かく優しい輝きを帯びる。
言葉にはできない光景とは、光が創造するということをいつも思い知る。
そして、そんな夕方の時間が、いつまでも長く長く続く。

その後に訪れる時間はさらに印象的だ。
太陽がようやく山陰に姿を消した後、残照を保ったまま、空は夜の準備をする。
茜色の上に深い藍を広げていく空。
何かが「終わっていく」という瞬間はいつも寂しさを伴わせるが、感傷とは、きっといつも美しいものなのだろう。
寂しさを広げた空は限りなく美しい。
そして、この優しくも少し憂いを含んだ美しさこそ、北の地の夏の気配なのだと、いつも大切に思う。

「梅雨が明けました」と天気予報は言う。
その一方で、「夏になり美しい夕暮れがやってきます」という言葉を天気予報からは聞いたことがない。
大切なものは、やはり自分で見つけるしかないのだろう。


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北国の風土から拾ってきた小さな物語たちです。お時間があるときにでもご覧いただければ幸いです。
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土の名前

7月 7th, 2010

昨年から、「土の名前」というタイトルで写真を撮っている。
このタイトルからすると、その土地らしさの風景というのが想像できるかもしれない。
しかし、僕が撮っているのは、人の姿だ。それも、背景をそれほど入れ込むこともないので、その人が生きている土地の情報がすぐには伝わってくることはない。
写真を見ての情報としては、その人がどのような顔や出で立ちをしているかということが中心となっている。

岩手に暮らして、今年で丸11年が過ぎた。その間、いろんな人と接してきて、ずっと考えていたことに、「人と土地の関係性」がある。
簡単にいってしまえば、どのように人は土地から影響を受け、またどのように土地は人に影響を受けてきたかということである。
人から見るか、土地から見るか、その見方は二通りあると思えるが、僕がまず始めたのは、土地に影響を受けた人の姿だった。

人はたとえ都会であれ、土地からは逃れることはできない。いわゆる田舎であれば、土地はさらに大きな存在だ。
土地からどのように糧を得て生きていくか。風土にどのように寄り添いながら生きていくか。そこにこだわらずして田舎での暮らしは成り立たない。
仕事、家づくり、そして生と死について。すべてが土地に深く結びついている。

そう考えてみると、きっと、土地には土地の顔というか醸される雰囲気が存在するだろう。撮影はそんな風にして始まった。
昨年は幸いにして、多くの土地に行く機会があった。
土地で仕事をする人、歩いている人、何となくピンときた人に声をかけて撮らせてもらった。

この写真群がどのような意味を持っていくか、今はまだわからない。ただ、予感として、人のたたずまいはやはり土地が深く関与しているようには思う。
たとえば、この一枚はどうだろうか。
土地の名前は、岩屋観音。そこで出会った初老の男性だ。





写真は当然ながら写っているものがすべてである。写っていないものを推し量るのは人間の想像力であって、写真ではない。
それでも、おそらく写真は何か見えないものを伝えるような力を持っていると思うのは、結局、感覚に支配されている人間ゆえだからだろうか。

岩屋観音で出会った男性は、しきりに夏に行われる祭りについて、能弁に語った。
「無住となった寺の祭りを続けるため、自分が苦労して一日住職の許しを得た。だから、祭りが続けられる」と何度も繰り返した。
村も高齢化し、次第に協力者も減っていく、それでも、やっぱり祭りの続けるのは、「自分が生まれ育った村だもの」と笑った。
その岩屋観音は、すでに住民のすべてが離村し、男性も山の下の集落に暮らしていた。
寺の祭りは、いわば、無人となった集落に人が集まる一日をつくることでもあった。

僕は男性から祭りについて、村について、とりとめのない話を聞きながら、ある意味、確信を持ってシャッターを押した。

今年もいろいろな土地に出かける日々が続いている。
どのような「土の名前」に出会えるか、とても楽しみにしつつ、旅の準備を始めている。

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