6月, 2010 Archives

IAPA 協会展 2010

6月 23rd, 2010

今週の金曜日25日より、盛岡市上田公民館のギャラリーにて、僕も所属している岩手広告写真協会の写真展がスタートする。
期間は6月30日までの5日間だ。

岩手広告写真家協会というのは、主に盛岡で活動するプロカメラマンで構成されている。
自分の作品を主体に活動をしている僕が果たして、純粋な広告写真家であるかどうかは疑問のあるとことではあるが、入会以来いろいろな部分でお世話になってきた。
東京ではなく、この岩手でプロのカメラマンとしてどのように仕事をしていくか、いろいろな意味で学ばせてもらったと思う。

協会の活動としては、勉強会や情報交換会などがあるが、一番の目玉は写真展だ。一年に一回、ささやかでああるが、撮りためた写真で写真展を行っている。
写真展は、ノンテーマということもあるがたいていの場合、テーマをもうけている。

過去のテーマとしては、「賢治と啄木」、「ヌード」「ハレとケ」など、なかなか興味深いものが多い。
そして、今回は、協会が25周年を迎えることに意識して、B&W(モノクローム)による「原点」ということになった。

原点とは実に広い意味を持つ。写真家としての原点ということもあるだろう。たとえば岩手といった故郷を原点と捉えることもできる。
自らのルーツ、家族や一族の原点を写真で探し出すことも面白いだろう。

今回の参加者は合計で15人。それぞれ、全紙サイズのフレーム2点に作品を入れて展示する。
協会展で一番楽しみにしているのが、ほかのメンバーがどのように作品を展示するかである。
もちろん、自分の作品が実力あるプロカメラマンたちにどのようにみられるかという部分も興味深い。
いろいろな意味で刺激的なのだ。

ちなみに今回の僕の作品は、思い悩んだ末、「感性の原点」を主題とした。
写真家として、何を思い、何に刺激を受け、どのようなものを写真として生み出すか。
そのあやふやな「感性」というものの原点をたどっていくと、僕は自然と身体的というか、手のひらの感覚のようなものを思い浮かべる。

視覚はいつも決定的だが、聴覚や触覚はどこかとらえどころがない。しかし、深く深く僕たちの感性のなかに刻まれ、宿っていくのは、視覚よりも感触だったりするのではないかとときどき考える。
それは、母親から生まれ落ちた僕たちが、感触によってはじめて、母なる世界と対面することと無縁ではないように思う。


期間は、6月30日まで。ぜひ皆様、お時間があるときにでもご覧いただけると幸いです。
岩手写真家協会 http://iwate-apa.net/



IAPA 協会展 2010

馬のいななき

6月 10th, 2010

6月といえば、チャグチャグ馬コだ。
移住者である僕がどのようにしてチャグチャグ馬コと出会ったかについては、「北東北エリアマガジンrakra」誌で連載中の『祭りの余韻』で詳しく書いたので割愛するが、この祭りは僕がはじめて出会った岩手の祭りとして、深く印象に刻まれている。


祭りの内容としては、極彩色の衣装をまとった立派な馬が、行列をつくって初夏の田園を抜けて盛岡を目指すといったものだ。
説明するとそれだけなのだが、出発地点の滝沢村蒼前神社で、朝もやのなかで準備をする馬と人や、鏡のように空を映す田植え後の稲田、そして、それらを大きく包み込むような岩手山など、ひとつひとつのシーンが岩手の色、匂い、手触りに満ちている。
馬産地ならではの文化として生まれ、暮らしに馬を必要としなくなった今に至っては、ある意味で観光化された祭りではあるが、その岩手らしさは濃厚だ。


チャグチャグ馬コ


これまで、僕はこの祭りに何度訪れただろうか。毎年というわけにはいかないが、何回も足を運んできた。
祭りとは、基本的に繰り返しなので、僕にとって目新しいものはない。けれども、馬のいななきを耳にし、大きく身震いする姿などを目のあたりにすると妙に気持ちが昂ぶってくる。


常々思うのだが、人という生き物は、他の生き物が大好きだ。犬、猫は言うまでもなく、家畜である牛や豚、羊に馬…。人は動物を身近に置いておきたくなる。
これは余談だが、以前、「ハイエナとその飼い主」ばかりを撮った写真集を見たことがある。その写真集はフランス語だったため、詳細はわかりかねたのだが、写真を見る限り、アフリカのどこかの国の部族によって飼われているハイエナを飼い主とともに撮影したものだった。


この写真集を見て、正直、なぜアフリカの人がハイエナを飼わなくてならないのかと疑問に思った。野生にいるのだから、それでいいのではと。
しかし、振り返ってみてみると、なぜ僕たちは、犬や猫を飼わなくてはいけないのだろう。僕自身についても、十年来の親友とも言える愛犬ともに暮らしている。
結局、その写真集を見てわかったことは、そうか、人という生き物はたまらなく動物が好きなのだという、極めてシンプルなことだった。


馬とともにある暮らしが必要なものではなくなった今において、この地にチャグチャグ馬コが続いている理由は結局、そういうことなのだと思っている。
いくら文化だ、歴史だと言ったところで、チャグチャグ馬コは一年のうちでたった一日だ。
そのために馬を飼い続けることは理由としては弱すぎる。では、なぜ、この地の人は馬を飼うのか。
それはやはり、好きだからというほか理由は見当たらない。もちろん、この「好き」という感情の奥には、この地が古代より優れた馬を輩出する土地であり、この馬産地としての歴史が近世まで続いてきたというバックボーンもあるのだろうが、僕は、そこには人の根源的な何かが息づいていると思う。


犬の背に顔をすりつけ、その毛並みの感触、その匂いに懐かしさを感じるのはなぜだろう。
猫を抱いたときに思わず、決して嗅ぐことはないはずのおひさまの匂いがすると錯覚するのはなぜだろう。
生まれたばかりのネズミの赤ん坊や鳥のヒナなど、小さな生き物に触れたときに覚えるわくわく感と悲しさがせめぎあう感情は何によるものだろう。


野生ということなのだろうか。動物たちに見る野生。あるいは動物たちから、強さと弱さが入り混じった生命の「生」の部分がダイレクトに照射されてくるからなのだろうか。


人も本来は野生だったはずである。それでも、僕たちが犬を飼い、ハイエナを飼う理由は、森から出て、自然の理から離れてくらしはじめたからなのだろうか。そして、そこにはもう戻る術がないことを知っているから、少しでも野生を感じられるものを身近に置いておきたくなるのだろうか。


チャグチャグ馬コから大きく話がそれてしまった。
それでも、再び祭りの日が来ると、僕は巨大な馬のいななきに身を震わせ、郷愁めいた何かと一抹の寂しさを覚えるに違いない。


チャグチャグ馬コは6月12日。今週の土曜日となっている。

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集英社文芸サイト「RENZABURO」にて、フォトストーリー『小さな伝記』シリーズの連載を開始しました。
北国の風土から拾ってきた小さな物語たちです。お時間があるときにでもご覧いただければ幸いです。
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