3月, 2010 Archives

座るという感覚

3月 28th, 2010

僕のスタジオには一脚のスツールがある。

親しくさせていただいている木工作家である和山忠吉さんの代表作「ネマール」である。

この作品がどのようなものかは、写真を見ていただくとよいのだが、伝えられないのはこのスツールの座り心地の良さだ。

まるで地面から生えているような力強い安定感。クッション等は存在しないはずなのに、包む込むような柔らかさを持つ座面。親和性と呼べばいいのだろうか。木がこれほど人の身体に馴染むものなかと、いつも驚く。

人が作るものなのだから、当然そこには仕掛けがある。安定感にしかり、柔らかな座面にしかり、和山さんが作り上げてきた具体的なイメージの結果として生み落とされたものだ。

面白いなと思うのは、それらは簡単に写真や言葉では置き換えられないということだ。

写真を撮る際には、当然良く見えるように撮る。椅子であれば、座り心地が良さそうに撮る。言葉であれば、実際に「座り心地は最高ですよ」と書く。

しかし、身体が実際に体験する感覚にはどちらもまるで及ばない。たった一回数秒間座っただけの感覚は、100枚、1000枚の写真を見る体験をはるかに勝るリアリティーを持つ。

そんなことを考えるたび、どこまで行っても人は身体的なのだと思う。

こうしてインターネット空間に言葉を放ちつつも、今の岩手、春の訪れのなかで降る雪の冷たさと温もりの共存した雰囲気は、この地でこの空気を吸わなければ、身体に入れ込まなければ感じ得ることができないものなのだと思う。

岩手に暮らしている理由とは、そんなところにある。

おりつめ木工HP http://www.chukichi.jp/

●ご案内
集英社文芸WEB「RENZABURO」にてフォトストーリーの連載をはじめました!
北の風土で拾った小さな物語です。ぜひご覧ください。
Top=http://renzaburo.jp/whatsnew_list/index.html
作品=http://renzaburo.jp/contents/047-okuyama/047_hyoshi_001.html


 数年前にお亡くなりになったが、佐々木六夫さんという手仕事の職人がいた。
佐々木さんが手がけるのは金網細工と呼ばれるもので、針金を駆使して、カゴや湯豆腐のお玉などの生活品を製作されていた。専用の治具や曲げ道具を使い、大きな手のひらで「こうやって、ああやって」と製作する姿は、「つくる」ではなく、「こしらえる」という雰囲気だった。

 僕は、穏やかでユーモアあふれる佐々木さんの人柄が好きで、取材撮影と称し、何回も工房を訪ねた。佐々木さんは、仕事の邪魔者である僕をいつも優しく迎えてくれ、「けづを飲むんだ」と栄養ドリンクをひょいっと手渡してくれたりもした。

 僕はひとしきり写真を撮ったあと、いつも工房に並んでいる金網細工を物色し、これはと思ったものを譲っていただいた。また、なんとも愛らしい湯豆腐用のお玉をいくつかまとめて購入し、お土産として用いたこともあった。

 金網細工は、いわゆる伝統工芸品というものではない。素材である針金はこの土地由来のものではないし、技術的には難しい作業ではあるが、歴史的価値を持つものと考えられてはいない。しかし、だからだろうか。佐々木さんの針金細工は、そうした特権的世界に属さない風通しの良さがあった。

 ひょうひょうとしていて、生活のなかに上手に溶け込み、それでいて、常にどこか新鮮な輝きがあって、しかもめっぽう丈夫なもの。佐々木さんの金網細工と毎日つきあってみての印象はこんな感じである。

 何度かお会いしたことがあるといっても、僕は佐々木さんの人生のディティールは知らない。しかし、冗談を言いながら淡々とものづくりに励むその姿は、金網に毎日向き合ってきた、その道のりの豊かさを感じさせてくれるものだった。

 いつだったか、佐々木さんは、針金を曲げるためだけに存在する武骨な姿をした道具を指して、「こいつなしではやってこれなんだ。
命の次に大切なものなんだな。もちろん、母ちゃんもだけどな」などと、はにかんだことがあった。

 佐々木六夫さんは、「人生」が日々に宿ることを教えてくれた人だった。



●ご案内
集英社文芸サイト「RENZABURO」にて、フォトストーリー『小さな伝記』シリーズの連載をはじめました!
北国の風土から拾ってきた小さな物語たちです。お時間があるときにでもご覧いただければ幸いです。
TOPページ=http://renzaburo.jp/

作品ページ=
http://renzaburo.jp/contents/047-okuyama/047_hyoshi_001.html

春間近

3月 14th, 2010

先日、雫石のあるおばあさんから米作りの話を聞いた。
昭和7年生まれ。おばあさんは戦前、戦後、そして今に至るまで一年も休むことなく米を作り続けてきた。
今とは異なる身体だけを使った米づくり。それは、高度経済成長時に生まれ、新興住宅地で育った僕にとっては、ある意味、遠い世界の物語だった。
また、ないものねだりだろうか。人間の存在が大きかった時代の暮らしをうらやましく思った。おばあさんの語り口からは、人が人らしく、自然の時間のなかで生きていく姿が伝えられていた。

こうした昔の話を聞くと、いつも感じることがある。両方の時代を生きてきた人は、それらを天秤にかけたとき、どのように感じるのだろうかと。
その問いを口にした僕に返ってくるのはいつも同じだ。
「何があっても今の時代は天国だ。昔は大変なことばかりだった」
今の時代しか知らない僕たちは、簡単に時代を憂う。
それはもしかしたら憂いばかりを探しているような風潮があるのかもしれないが、どこかネガティブな気配が漂っている。そして、昔はもっと良かったのではないかと考える。僕自身もそうだ。
でも、遠い時代を生き、今を生きてきた人はどこか違う。「今がいいのだ」と言い切る。
おそらく、どちらかが良いということではないのだろう。結局、人は今の時代しか生きられない。日々を重ね、今に至る。「今がいい」というのは、重ねてきた日々を誇りに思う現れなのだと思う。そして、たぶん、「今」を選ぶ人は、どのような「今」であっても、それが、かけがえのない瞬間だということを知っているのかもしれない。

半世紀以上にわたって米づくりを続けてきたおばあさんは、春めいてきた気配をさして「今年もまた苗っこ植えねばなあ」と笑い、「米づくりは100歳まで生きたって、100回もできねえんだもの」と少し真面目な顔をして言った。



●ご案内
集英社文芸サイト「RENZABURO」にて、フォトストーリーの連載をはじめました!
北の風土で拾った小さな物語です。ぜひご覧ください。
トップページ=http://renzaburo.jp/whatsnew_list/index.html

作品ページ=http://renzaburo.jp/contents/047-okuyama/047_hyoshi_001.html

ふきのとう

3月 9th, 2010

暖かい日が続いている。

たっぷりと降り積もっていた雪もあれよあれよという間に消えて、黒々とした土が顔を出しはじめた。
岩手の四季では冬が一番と常日頃から公言しているだけあって、モノトーンの美しい色彩と凛とした空気感に抱かれる冬の日々とさよならするのは正直寂しい。
しかし、実際に春が来てしまえば、春の心地よさに完全に浸ってしまう。

春の気配のなかで僕がとても好きなのは、その匂いだ。
冬が基本的には、無臭だとしたら、春の香りはなんという豊饒なのだろうといつも思う。

たっぷりと雪解けを吸い込んだ土や、芽吹き始めた木々、ごうごうと流れる沢。おそらくさまざまなところからさまざまな香りが生まれ、それが春風に溶け込んでいく。
その豊かな香りを存分に含んだ春風のふくらみ、柔らかさ。それは、僕が育った関西では感じられない、北国ならではの気配でもある。

岩手に暮らしていて、本当に良かったと思うのはこうした感性に訴えかける世界がのびやかに存在しているということだ。
ずっと、暮らしていると当たり前すぎて気付きにくくなる部分かもしれないが、たぶん、それがあるかとないのでは日々の奥行きが違ってくることだろう。
たとえば、毎年必ず顔を出すふきのとうを見て、心を豊かにできるのもこの土地の生活するがゆえなのだろうと思う。

愛犬と散歩に出かけた夕暮れの河原。今年もふきのとうが元気の顔をのぞかせていた。



●ご案内
集英社文芸サイト「RENZABURO」にて、フォトストーリー「小さな伝記」を連載中です。
北の風土から拾い集めた小さな物語たちです。もし、僕の作品等にご興味のある方はこちらをのぞいてみてください。
トップページ=http://renzaburo.jp/
作品ページ=http://renzaburo.jp/contents/047-okuyama/047_hyoshi_001.html

手仕事の幸い

3月 1st, 2010

5年前ぐらい前から、北東北に点在する手仕事の現場を訪ねる旅を続けてきた。
きっかけは、「手のひらの仕事」(岩手日報社)という単行本を作るための取材だったのだが、本が完成しても手仕事への熱は冷めず、雑誌で数年間、手仕事の連載をさせていただいた。その結果、単行本と雑誌を合わせると合計60人以上もの職人の方々に会うことができた。

手仕事への旅を続けていくなかで、僕が興味を抱いていたのは、完成したものでなく、作る人の世界観やプロセスだった。
モノとは、作る人の人柄や仕事へ姿勢、プロセスが込められたものであるわけだから、完成品こそがすべてといっても過言ではない。
しかし、僕は完成品以前とでもいうべき、モノの背景や物語のとりわけ「生」の部分に触れたいと願っていた。工房へ訪ねると、この「生」の部分が、職人の発するふとした一言であったり、工房の片隅にころがる失敗作などから感じられた。
そして、こうした取材を通じてわかりえたことは、プロセスとは完成を迎えたときには、見えるか見えないかの痕跡になるということだった。
つまり、プロセスとはまさに氷山の一角の下の部分であり、我々が知っていることはほんの一部ということだった。
しかし、このプロセスが見えないことではじめて完成品の美や使い勝手を生む。プロセスとは完成を前にした過去の記憶である。
これは工房歩きで知り得たことだった。

さて、今回、紹介するのが、地元雫石で作られている南部木杓子である。
朴の木を使ったもので、鍋物などには欠かせない生活用具として昔から作られていた。
このシンプル極まりない造形を持つ木杓子を見て、どのように思えるだろう。
「なんだ、木を削っただけ」と見るか。あるいは、乾燥と濡れることを前提にした木の道具を作ることの難しさを直感し、そのプロセスを想像してみるか。
写真家とはいえ、写真を作るという意味では、僕自身もものづくりの端くれ。僕は常にプロセスを想い、完成品に敬意を払いたいと考えている。

雫石の民芸品 南部木杓子 米沢邦夫 電話010-692-5577

●ご案内
集英社文芸サイト「RENZABURO」にて、フォトストーリー「小さな伝記」を連載中です。
北の風土から拾い集めた小さな物語たちです。もし、僕の作品等にご興味のある方はこちらをのぞいてみてください。
トップページ=http://renzaburo.jp/
作品ページ=http://renzaburo.jp/contents/047-okuyama/047_hyoshi_001.html
indexmebaby.tk