水仙月の四日

4月 11th, 2012
ようやく嵐が納まった。
我が家では停電と光ファイバーの断線という最小の被害で済んだ。
昨年の震災時も感じたことだが、こういう自然の猛威の前での無事は、たまたま運が良かったというほかにはない。
もちろん、物理的な備えとか心構えなども無事の度合いを高めてくれるだろうが、自然の猛威とは、そんな人間の行いを軽々と越えて、呑み込んでしまうものだ。最後の最後は、たまたま助かったか、助からなかったかが残る。もし、前者であるならば、ただ感謝するしかないと思う。

それはさておき、この時期にこういう嵐があって思い起こすのは、賢治童話のひとつ「水仙月の四日」だ。
本当に素敵な童話なので、僕もいろんなところで綴ってきた。確か、ここでも昨年に書いたように記憶している。
繰り返しになる部分も多いと思うけれど、せっかくなので書いてみたいと思う。

物語は、春の嵐の一夜を描いたものだ。嵐といっても舞台はイーハトーヴ岩手のことだから当然、吹雪の嵐だ。
この雪嵐を起こす存在として登場するのが、雪婆んご(ゆきばんご)、雪狼(ゆきおいの)、雪童子(ゆきわらす)という、雪の精たちだ。
彼らにとって、「水仙月の四日」とは、吹雪のお祭りのようなもので、とにかく大暴れして、猛烈な吹雪とするのが常らしい。

賢治は「水仙月の四日」について、実際の暦で記してはいないが、「カシオピイヤ、もう水仙が咲き出すぞ お前のガラスの水車 きっきとまわせ」と雪童子が言っているところをみる限り、きっと、4月の4日頃だろう。
これは僕の勝手な思い込みかもしれないが、初めて「水仙月の四日」を読んだ小学生の頃からずっとそう思ってきた。とはいえ、僕が育った奈良には四月の残雪もなく、水仙もほとんど見ない。おそらく水仙のひとつやふたつはあっただろうが、気候からみて水仙が咲くのはきっと1月ぐらいのことだろうと思う。それでも、なぜか4月4日のことだと思ってきた。

そして、それが正しかったことを知ったのは岩手に移住できたからだ。26歳で岩手に移住して何度か冬を経験しているうちに、僕が想像していたことは間違っていなかったことを実感として得れたのだ。

4月の初頭になると、僕が暮らす雫石では、まるで冬が終わってしまうことを抵抗するかのように、よく吹雪くのだ。
もちろん、先日のような台風めいた嵐ではないのだけれど、雪雲が空一面に広がり、大粒の雪がどさどさと降ってきて、風がびゅうびゅう吹いて大荒れの日が必ずやってくる。
そんな春の吹雪を何度か経験しているちに、「ああ、これが賢治の描いた水仙月の四日だ」と、すんなり理解できたのだ。
吹雪の先には、小さい頃からの憧れだった赤い舌をべろべろとはいて空を駆け巡る「雪狼」も、白熊の毛皮の三角帽子をかぶった「雪童子」
の姿は見つからなかったけれど、ごうごうと鳴る風雪があたりを覆い尽くす気配は、まさに「水仙月の四日」だった。

今でも僕は、岩手に移住して良かったことのひとつは、「水仙月の四日」を感じることができたことだと思っている。賢治が描いた世界を実際のものとして体感すること。それは、このイーハトーブに暮らすものの大きな贅沢だと感じる。

「水仙月の四日」の物語で重要な存在となるのは、赤いケット(毛布)をかぶって雪原を歩く男の子だろう。
男の子は、山で炭焼きをするお父さんの手伝いをした後、一人で家まで帰る途中に、この水仙月の四日の吹雪で遭難してしまう。
普通であれば、凍死する場面。しかし、雪を降らせる雪童子が「倒れておいで、ひゅう、だまってうつ伏せに倒れておいで、今日はそんなに寒くないんだから」と言い、さらに激しく雪を降らせる。
そして、その言葉通り、吹雪の翌朝、男の子は何とか死なずに済んだような少しあいまいな記述があり、物語が終わる。

突然襲ってきた春の吹雪、そして遭難し、何とか死なずに済んだ男の子。物語を一言で説明するとこうなる。
男の子が死なずに済んだのは、雪童子が同情し、「おや、おかしな子がいるね。そうそう、こっちへとっておしまい。水仙月の四日だもの、一人や二人とったっていいんだよ」と言う雪婆んごの言葉に反して、雪の中で眠るように仕掛けたからだが、それはあくまで物語の話だ。もし、この遭難が現実だったとしたらどうだろうか。
男の子が助かった理由は、いくつもの幸運が重なってとしか言うことができないだろう。神を持ち出せば解決するだろうが、ここでは自然の人間の関係においてだ。
やっぱり、子供が助かった原因は見つからない。理由はないが幸運だったというだけだ。

でも、こうした因果なき幸運については、賢治が一番言いたかったことではなかろうか。

その印象的な一説が、雪童子が、男に「そうして睡っておいで、布団をたくさんかけてあげるから。そうすれば凍えないんだよ。あしたの朝までカリメラの夢を見ておいで」と雪を男の子にかけてやってから、「あのこどもは、ぼくのやったやどりぎを持っていた」とつぶやく部分だ。
この「やどりぎ」というは物語の冒頭、雪狼と雪童子が雪原で遊んでいるシーンで登場する。

栗の木に宿り、金色の実をたくさんつけて大きなマリのような姿をした「やどりぎ」を見つけた雪童子は、雪狼に向かって「とっておいで」と言いつけるのだ。
そして、このやどりぎの枝を手にした雪童子は、その後で雪原で遭難することになる子供を見かけ、ちょっとしたいたずら心からやどりぎを子供に投げつけるのである。
子供の目には当然、雪の精である雪童子の姿が見えるはずもない。にもかかわらず、空からやどりぎの枝が降ってきたのでびっくりするのだが、とりあえず、目の前の枝を拾い上げて、再び家に向かって雪原を歩き始める。

このやどりぎは何を意味するか。賢治は語ってはいない。ただ、子供は拾い上げ、それを見ていた雪童子は、子供を助けると物語を進めていくだけだ。
このやどりぎが子供の生死を分けたと考えるのは行き過ぎだろうか。でも、僕はずっとそう考えてきた。

雪童子にとっても子供にとっても何の意味も持たないやどりぎの枝。おそらくそれは、雪童子と子供、そのどちらにとっても登下校中の子供が道端の石ころを何の気もなく拾ってポケットにしまったという程度のものだろう。
その程度のものなのだから、子供がやどりぎを拾ったことが、雪童子の同情を誘ったのでもないと思う。しかし、子供は確かにやどりぎを持っていて、それが理由ではないのだが助かることができた。

結局、運、不運というものはこういうものではないだろうか。
因果関係はもちろん、理由も何もない。それが命のような大きなものを分かつ。
これを言い換えると「不条理」と呼ばれるものにつながっていくのだろうか。
賢治童話を貫くもののひとつは確かに「不条理」だ。これこそが、すべての存在を平等にする。すべての人の幸福を願った賢治だが、逆に言えば、その賢治のその思いとは、すべての人に隔てなく不幸が存在するということを肯定する。
そう考えると賢治は、幸福も不幸もない交ぜになった存在として、物語中に「やどりぎ」を登場させたのかもしれない。

水仙月の四日の嵐が過ぎ去った朝、雪狼を連れた雪童子たちが、顔を合わせ挨拶をする。

そのとき交わされる言葉は、「ずいぶんひどかったね」「ああ」「今度はいつ会うだろう」「いつだろうねえ、しかし今年中に、もう二へんぐらいものだろう」というものだ。

先日の嵐のように、春の吹雪に出会うたび、僕はこの雪童子たちの会話を思い起こす。

そして、果たして、雪童子たちはその後、会うことができたのだろうかと思いを巡らせる。
「もう二へんぐらいだろう」。確かに、一度か二度あるかないか。賢治が「水仙月の四日」と名付けた春の吹雪の後は、いつもそれぐらいの雪で、この土地では春になっていくようだ。
でも、なぜだか、僕の記憶には、春の大嵐が何度も来たという記憶はない。
春の吹雪の後、いつもどちらかというと、ずんずんと雪解けが進んで、知らぬ間に冬が押しやられ、春になっていくように感じる。

それとも、僕が、再び雪童子と雪狼がやってきたことを気づいていないのだろうか。
でも、きっとそういうものなんだろう。
あの場所にもう一度立ってみたい。あの日にもう一度かえってみたい。あの人にもう一度会ってみたい。
そんな風に思うことは少なくないけれど、もう一度、というのは気がつけばいつも遠く離れてしまっている。

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はじめて見るもの

3月 24th, 2012
先日、短角牛の出産を撮影するため、旧山形村に行ってきた。
実は、昨年もちょうど今頃、短角牛の出産を撮影していた。
その後この場所で、生まれたばかりの短角牛の持っている生命のリアリティー、家畜としての厳しい運命について、感じたことを書いた。(2011/3/4 冬の子牛

今年は、幸運が重なって昨年よりもじっくりと丁寧に、母の肉体から生まれ出る子牛たちを見つめることができた。
「出産」という出来事は「すでに知っていること」であるはずだった。
確かにすでに知っていた。
破水し、産道から、通常であれば前脚が出てきて、母牛が一生懸命いきんで、羊水で黒々と濡れた子牛がこの世に生まれ出る。
もうもうと立つ湯気、そして、濡れた赤ん坊の身体をなめあげる母牛、それを静かに見守る牛の飼い主…。
そう、今年も牛の出産とは、実際にその通りだった。

しかし、実際は「すでに知っていること」ではなかった。
「衝撃」と言っていい。出産を見つめた僕の心情は大きく揺さぶられた。目の前にある光景、そのすべてが「はじめて」だと思えた。
光景の細部に宿るもの-匂い、湿度、音、光、動くもの。そのすべてが誰にも見られたことがない、本当に真新しい世界のように思えた。

たとえば、子牛が産道から出てくる瞬間、子牛たちは皆、舌を突き出している。
理由は僕にはわからない。ましてや人間の赤ん坊もまたそうなのかと訪ねられても知る由もない。
ただ、子牛たちは皆、薄紅色の舌をすらりと口の外に出しながら母親の肉体から出てくるのだ。

ここに神秘を感じ、僕はこの光景を驚いたのでは決してない。
ただ、子牛たちが皆そろって舌を出して生まれてくるという揺るがしようのないリアリティーに震えたのだ。
「出産」に限ったことじゃない。すべての光景の意味は後付けだろう。何よりも先にリアリティーがそこにあるだけだ。
きっと、写真も言葉もすべて、そのリアリティーを後から追いかけているにすぎないのだろう。

そして、僕が最も驚き、最も心に残った光景が、生まれたばかりの子牛の瞳だった。
母牛が何度も横腹を収縮させ、ふうふうと強く呼吸する。
すると、もうもうと湯気をあげながら、産道から子牛が出てくる。
そのとき、子牛は一枚のヴェールをまとっている。羊膜だ。羊膜はまるでゼリーか寒天のように半透明だ。
その一枚の羊膜の向こうに子牛がいるのだが、そのとき、子牛たちは皆、瞳を開いているのだ。
しかし、その段階では、何も見えていないのだろうか。
羊膜越しに見る子牛の瞳はどこかうつろだ。
しかし、最後、母牛が大きくいきみ、子牛の全身が外の世界にぬらりと放り出された瞬間、そう、羊膜が音もなく破れた刹那だ。
温かで居心地の良い母親の肉体とは比べようもなく厳しい外界へと出た瞬間、子牛の瞳は覚醒するのだ。
青い宝石めいたその瞳は、横倒しになった顔の真ん中で、まるで別の生き物のように躍動する。ぐるんと瞳が開くのだ。


きっと「見えた」のだろう。はじめて、世界を「見た」のだろう。
そしてその瞳がぐるんと動いた直後、子牛は何かを吐き出すようにげっと喉を鳴らし、大きく横腹を波打たせ、はじめての呼吸をする。
子牛の誕生だ。
子牛がこの世界に迎え入れられたのではない。力ずくで世界の襞を開いてみせたかのように強い呼吸だ。

母親はさっそく生まれたばかりの子牛の身体を愛おしそうになめる。
子牛は、思い頭をよろよろと上げ、バタンバタンと滑稽な失敗を繰り返しながら首をもたげる。
さらに、はじめて竹馬をする子供のようにふらつきながら、そのアンバランスに長い脚の上に身体を持ち上げる。
「出産」という出来事はこうして終わる。
あとに来るのは、出産とはまた違った物語だろう。

羊膜の先に出た子牛が見た「世界」とはどういうものだっただろうか。
僕はそれをずっと考えている。
どういう色をして、どういう形をしていたのだろうか。
果てのない空想である。
でも、何かを見たこと、そして、そのとき見えた何かに何かを見出したとしたら、それは何だろう。
「生きよう」という思いだろうか。
いや、そんな陳腐なことではないだろう。
「生きる」ということは、生命の大前提だ。そこからしかすべては始まり得ない。

でも、それ以外に何かあるだろうか。
「生まれてきたこと」の意味についてだ。
僕たちは、誰かの役に立ちたいとか、愛したいとか、子孫を残したいとか、後世に残る仕事をしたいとか、友人に恩返ししたいとか、何より、自分らしく生きたいなどと、いろんな理由を探そうとする。
人生にはきっと目的や目標がある。と同時に、誰にも生まれきた理由がある。
僕もずっとそう思ってきた。

でも、本当にそうだろうか。
子牛が生まれてきた理由は何だろうか。
家畜として考えるならば人に食べられることが彼らの生命の役割といえるのだろうか。
でも、そう考えることにどうにも納得できないのはなぜだろう。
本当にこの世に生まれ落ちる理由や目的などあるのだろうか?

もっと、子牛が「はじめて見た光景」を受け取るように、「生きること」を見直せないだろうか。
邪魔をしているのは、「理由」だ。
きっと、生きることの理由なんかどこにも見つかりはしない。
生まれてきたことに理由なんか見つからないように、生きることも、死ぬことにも理由なんか見つからないのかもしれない。

それでも、たとえそうであっても、生命は生きようとする。したたかにたくましく、そして辛抱強く生まれ、生きようとする。
そういう生命がこの世界には、ただどこまでも「在る」のだろう。
僕たちは、本当にその小さなひとつに過ぎない。
きっと、そういうことだ。
それを肯定していけば、僕たちはもっと強くなれるだろうか。

ずっと写真を撮り続ける人がいる。
これまでいろんなところで紹介しているので、ご存知の人も多いと思うが北海道に暮らす「井上弁造」というお爺さんだ。
僕が弁造さんにはじめてあったのは今から14年程前のこと。以来、定期的にその暮らしを撮らせてもらっている。
弁造さんは、今年で92歳になる。
当然、その人生は一言で語れるものではない。北海道開拓のなかでの暮らし。戦争経験、戦後の混乱、そして個人として夢や思い。
時代というものに翻弄されたこともあり、人生は波瀾万丈だったと言っていいだろう。
でも、誰かの人生と比較することなんて不可能だ。弁造さんの人生とはきっと、誰にとってのそれと同じようなもので、上手くいったことも上手くいかなかったこともあるというものにすぎないと思っている。

そんな弁造さんがいつだったか、僕に猛烈な剣幕で言ったことがある。
「あんたにとって、俺の人生はどう見える? 幸せだったと言えるか?」
なぜ、弁造さんはあれほどの剣幕で叫んだのだろう。

弁造さんに会いに行くとしょっちゅう喧嘩する。理由はいつもささいなことだ。
おそらく、あのときもちょっとしたことで喧嘩していたのかもしれない。
でも、弁造さんのあの真剣な眼差しは、そのときの僕にとってはじめてだったと思う。
弁造さんの人生を知りたい。いかに生きてきて、いかに死んでいくか、それを見たいと切望していた僕が、はじめて弁造さんの心根に触れたと思えた瞬間だった。

そのときの僕は、弁造さんの問いに答えられるわけはなかった。
弁造さんの人生の細部はよく知っていたけれど、判断を下せるものは何もなかった。
それは今も同じことだ。
弁造さんの人生が幸せかどうかなんて決められるわけはないし、そもそもそんなことを考えようとも思わない。
それは、生命が「そこに在ること」に理由がないように、人生を右か左に決めることなんてできることなんてできるわけはない。
きっとそれは、家畜として生まれてきた子牛が幸せかどうかを問うようなものだ。

でも結局のところ、僕は何もわかってはいないのだろう。考えれば考えるほどそれを痛感する。
そうであるならば、やはり、子牛がはじめてその瞳をぐるんと動かし、何かを見つめ、げほっとはじめての大気を肺に取り込み、この世界に飛び込んできたように、「はじめて見る光景」をただ在るものとして受け入れていきたいと思う。

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雪が遠ざけるもの

2月 27th, 2012
何となく春めいてきた。
北国にとって、春は喜びの季節だ。
とくに今年のように大雪に見舞われた地域にとっては待ちに待った季節といえるだろう。
しかし、だからといって雪がそのままネガティブなものではないだろう。
雪の季節があっての春の輝きがある。
それは、死があっての生、光があっての陰と同じことで、雪を他の季節と分つことは決してできないだろう。
もし、雪の降る冬がなければ、きっとこの土地の春や夏は色褪せたものになるに違いない。

そして、雪ほど、人の精神に訴えかける季節はないように思う。
僕が雪の降らない土地で育ったからよけいに感じるのかもしれないが、雪は思索を育む。
わかりやすく言えば“気づき”というものかもしれないが、日常において忘れがちな感情をすっと立ち上がらせる。

たとえば、雪の夜が過ぎ、夜が開ける。
僕の家は森のなかに立っているので、窓の向こうは雪化粧を施した木々が立ち並ぶ光景だ。
柔らかな冬の朝日を浴び、きらきらと光る雪原と木々の姿は、ため息が出るほどに美しい。
この風景を見ながら、今日も新しい朝が始まったことを知る。
いつの時代だろうが、朝は毎日、新しい。昨日と同じ朝なんて絶対にない。
しかし、そんなことすら僕たちは忘れがちだ。昨日と同じ時間の続きでしか、今日という朝を捉えていない。
でも、そこに雪があるだけで、誰ひとり歩いた跡のない、雪原の起伏を見るだけで、今という時が生まれたばかりの時間であり、新しい朝だということを教えてくれる。
それはきっと、僕たち自身にあてはまることだろう。新しい時間を歩もうとする僕たちもまた常に生まれ変わり続けている存在ではないだろうか。

先日の雪との出会いも印象的だった。
雪が積もると、静けさが増すと同時に匂いが消える。寒さも手伝ってのことだろうが、雪の森を歩いていると匂いはほとんど意識の外にある。
これは春などと大きな違いだ。春は、水から、土から、様々な匂いが立ち上ってくる。
しかし、だからだろうか。匂いのない雪の上では逆に匂いに敏感になることも確かだ。
うっすらと香るものがより強く感じられるのだ。
先日は雪のなか、牛たちを撮っていて、そのことに改めて気がついた。

激しく降るなかでの撮影だった。
牛たちは、大きく枝を広げた大樹の下、雪を眺めるように静かに立っていた。
しかし、僕が近づいてきたことを知ると、数頭の牛が僕の方へと向かってきた。
牛は好奇心の強い生き物だ。見慣れない人を見つけると、確認するために寄ってくるのだ。
その日も牛たちは、カメラを持った僕に興味を覚え、お腹を雪原にこすりつけながら、ゆっくりと近づいてきた。

牛たちは真白な息を吐いていた。
息は、牛の大きな顔を包むようにふわふわと膨らみ、雪のなかに音もなく消えていった。
と同時に僕に牛たちの体臭が届けられた。
どこか甘く、香ばしい牛たちの体臭。それは濃厚なまでの湿度をも含んでいた。けっして初めて嗅ぐ匂いではなかったが、かつて経験した匂いとはどこか違っているように思えた。
雪が体臭の純度を高めてくれたのだろうか。
牛たちの体臭は、それ自体が生命そのものの体温のようで、僕は思わず、牛たちに抱かれているような感覚を味わった。
降りしきる雪のなか優しく温かな牛たちだった。

愛犬のさくらの体毛に顔を埋めるときもそうだ。さくらの真っ黒な体毛一本一本には持ち主であるさくらの匂いと、体温が宿る。
そのふたつはそのまま生命への実感でもある。

雪はある意味で無の世界だ。その下に無数の生命が眠っていることは知っていても、感覚の上では静寂が勝っている。
でも、だからこそ、そこに立つ牛たちの生き物としての存在感が濃厚に立ち上がってきたのだろう。
雪は、生命のリアリティーを伝えてくれたのだ。

牛たちの体温を感じながら、思い返したのがある若い探検家の言葉だ。
エベレストの頂上付近のいわゆるのデスゾーン(通常の状態では生命を維持をするのが難しい高所)においても酸素補給なしで単独登頂をチャレンジし続けている若い探検家は、生命の危険を侵す理由をこんな感じに語っていた。
デスゾーンでは、とにかくつらく厳しい。しかし、その厳しさのなかでこそ、ベースキャンプだったり、日本だったりで自分を支えてくれる人たちの大切さを知ることができる。その大切さをより強く感じるために山に登る…と。

ちらっと見た雑誌に書かれていたことなので、もしかしたら正確に読み取ってはないかもしれない。
誤解を恐れずに書くと、彼は、日常生活においては感じることができないことを知るために自らの生命を賭して山に登っているということを言っていた。
僕はそれを読み、彼の行為は英雄的ではあるが、もしかしたらとても哀しいことかもしれないとも思った。
自分を支えてくれる人の大切さを思い知るには、自らの生命の危機を侵す必要がはたしてあるのだろうか。
それはきっとある、彼には。
でも、あまりにも不器用ではないだろうか。
彼が感じたいことは本当に命を賭してしか得られないことだろうか。
普段の日常において、普通に話したり、笑ったり起こったりするなかで人の大切さの知ることは困難なことなのだろうか。
もし、それを彼ができたなら、デスゾーンの先ではもっと違ったこと、本当にデスゾーンでしか感じることができない、ある意味、超越的な世界と出会えると考えられないだろうか。

でも、きっと彼の言うことは本当なのだろう。
人は、自らの身を置く日常から少し離れることで、“日常”を満たす何かを感じ、知ることができる。
実際に、僕たちはちょうど一年前の震災を通じて、日常のなかに宿る本当に大切なことに気づいたのだから。
デスゾーンではない場所でも大切なものが見つかるはずだと思うのは、冒険を諦めた者の羨望なのかもしれない。

再び雪が激しさを増しつつあった。
たぶん一緒に遊んだりしなかったから飽きてしまったのだろう。僕の周りから牛は去っていき、再び樹の下に集まって立っていた。
大きく枝を広げる樹の下で並び立つ牛たちの姿は、まるで樹の下で輪になって何かを祈っているようにも思えた。
もし、牛たちが祈りを持っているとすれば、それはどういうものなのだろうか。
何を願い、何を夢見るのだろう。

冒険では決してないが、雪という現象は、僕たちから日常の世界を少しだけ遠ざけてくれる。
この土地では、それが毎年必ず、誰のもとにもやってきてくれる。

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岬の旅

2月 9th, 2012
先週、約1週間かけて、福島の南相馬から岩手の久慈まで、海の旅をした。
今、旧街道を旅する単行本を作っていて、その本を仕上げるための再取材という旅だった。
震災後の道の状況など確認しなくてはいけないことがいくつかあったからだ。

震災後10ヶ月の被災地で見聞したことはまたの機会に書くとして、今回の旅で新鮮な思いを抱いたのは、三陸海岸という大地の造形だ。

典型的なリアス式海岸として知られる三陸海岸ではあるが、南と北ではその様相は大きく異なる。
宮古から南半分は、岬と深い入り江が鋸の歯のように連続して並ぶ穏やかな景観だ。
この景色を彩るのは波だ。入り江を満たすさざ波は、跳ねる魚のごとくきらきらと陽光を撒きながら動き続けていた。

一方の北側の海岸線は、文字通り断崖となる。
こちらは、海から山がそそり立つと表現すればいいだろうか。
海抜0m地帯からほぼ垂直といってもよいほどの角度で海抜200mにも及ぶ海岸段丘が隆起している。
この断崖の上に立ち、どこまでも広がる太平洋を望むと、誰もが「地球」という言葉を思い浮かべるだろう。
聞くところによると、三陸海岸の隆起海岸は、太古の時代から続く地殻運動によって生まれたという。そして、この地殻運動は今も続き、断崖は成長しているとも。
日常を離れ、「地球」という大きな視座を得る。ここはこういう場所なのだと思う。

こうした断崖で有名な場所に、田野畑村の北山崎がある。三陸北部の断崖美を堪能できる場所だ。
しかし、僕は北山崎よりも少し南にある鵜ノ巣断崖が好きだ。
観光地として整備された北山崎に対し、鵜ノ巣断崖は野性味が残る。断崖に先端には柵と小さな展望台があるだけで、つま先の向こうは150m下の海だ。
高所ゆえ恐怖感もないわけでもないが、そんなことよりも、自然が生み出した造形に目を奪われる。
北では、胸を張った巨大な岩壁が居並び、南では一本の岬がぐいと沖に向かって身を伸ばす。
そして波。波は遥か沖からうねりとなって陸を目指している。
この波の運動は不思議な感動を呼び起こす。
遠い水平線の彼方から、休むことなく陸地に向かって旅を続ける波。
それが風で生まれるとか、海流で生まれるとか、そういう机の上での知識を持っていたとしても、実際に目の当たりにすると、言いようのない不思議さのなかに放り込まれる。なぜ、波は陸を目指すのだろうかと、あてどもなく。

今回の旅では厳寒のなかではあったが、鵜ノ巣断崖で夜明けを迎えた。
波がやって来るもっと遠くから赤々と燃える太陽が昇り、その光と熱で風景が息を吹き返すのを眺めた。
神々しさ、それはこの場所では決して大げさではない感情だろう。

とくに南側の岬の姿が美しかった。
岬は、海にしつらえた長く美しい桟橋のようだった。
それは、漠然と「旅のはじまり」を連想させた。
見知らぬ海に旅立つため、長い長い岬の桟橋の先を目指す。
旅の目的地はきっとどこでもよく、旅に出ることに意味があるのだと岬は教えてくれているようだった。

ふと、津軽の西海岸にある小さな岬のことを思い起こした。
そこは、鵜ノ巣断崖とは比べるべくもない小さな岬だった。でも、同じように美しい場所には違いなかった。
そして、そこは土地の人から「賽の河原」と呼ばれていた。
海に暮らすその土地では、逝った人の魂は海原の向こうへと旅立つものとされていた。
海原のその向こうが、楽園であるのか、あるいは茨の刺に覆われた野であるのか、僕は知らない。
ただ、盂蘭盆と呼ばれる頃、海原の果てから魂は長い旅を続けて故郷に帰ってくるというのだ。
岬は、その魂が最初にたどり着くところ。あの世とこの世を分かつ場所だと伝えられてきた。
そこで、土地の人は、花を胸に抱いて岬に立ち、先に逝った懐かしい魂を迎えるのだという。
とはいえ、魂の棲まう場所は、やはり海原の果てだ。
盂蘭盆(うらぼん)が終わる頃、魂は再び懐かしい家族に送り出され、あの世へと岬の先から旅立っていく。
哀しくも美しい旅。西津軽の岬とはそんな場所だった。

鵜ノ巣断崖の岬が土地の人にとってどういう場所であるのかはわからない。
しかし、人は自然のなかに様々な意味を見出していく生き物であることには違いない。
三陸海岸には無数の岬が存在する。
それは、この土地が無数の物語を持っていることを暗示していると、僕は思えてならない。

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写真を撮ること

1月 20th, 2012
先日、盛岡のミニコミ誌「てくり」のイベントで2日間限定のポートレート撮影会を行った。場所は、中ノ橋通りの「唐たけし寫場」。
この建物と、館主でありカメラマンであった唐たけしさんについては、次々号の「てくり」で詳しくお伝えするので割愛するが、カメラマンを務めた僕自身はもちろんこと、カメラの前に立ってくれた方々にとっても、とても有意義な時間になったように思う。

この写真館の歴史は、昭和10年からだそうだが、特徴はモダンなスタジオ一杯に設けられた北側だろう。
現在のように人口光を生み出す機材の少ない時代のことである。自然光をいかに上手く取り入れるか。そのために設けたのが北側の窓だった。
一般的な感覚では採光窓は南か東となる。太陽に向けて、という方角である。
北側の窓は、当然、東や南より採光性に劣る。しかし、写真を撮るにはとても良い光となる。東や南の窓は直接太陽の光を拾うのに対し、北側の窓は、太陽ではなく空の光、太陽光が空一面で乱反射したその光を拾う。直接光ではないため、とても穏やかな光が一日に渡って安定して届けられるのだ。

この光の特徴がそのまま写真となる。
北側の窓からの光はハイライトからシャドウまで穏やかなグラデーションを作りながら被写体へと届けられる。
うっすらと青みを帯びた白い光のベールが被写体を包み込むといった感じだろうか。
より柔らかな光となる冬であることも手伝って、今回の撮影会では、とくにその美しさが増していたように感じた。

今回、撮影をご希望された方は、一人の方もあれば家族で、あるいは愛犬と一緒だったりとさまざまだった。
なので、写真を撮られたいと思った理由それぞれだろうが、今の自分や家族の姿を写真として残しておきたいという思いは共通していたように感じた。照れ、はにかみながらも、カメラの前に立ち、それぞれが持つ「今」という時間を表現してくれた。

2日間に渡って、こうした撮影を続けながら、ふと感じたのは、写真は本当に記録のためにあるのだろうか、という問いだった。
いうまでもなく写真の一番の特徴は記録性である。
写真がそのまま真実と足り得るかと言われたら、それは真実ではないと答えるしかない。写真は決して「見たままの現実」ではない。
しかし、写真は、絵画をはじめとするほかの表現手法に比べ、最も記録性に富んでいることは間違いない。
カメラを操作する者は常に主観に支配されているが、レンズとフィルムは主観を越えた、より客観に近づいたものを写し出す可能性を秘めている。つまり、写そうと予定した以外のものが写るということだ。
写真が持つ記録性の豊かさとは、こうした撮影者の思惑が越えたところから生み出されることも少なくない。

しかし、写真を撮るという行為自体は、本当に記録といえるのだろうか。
記録とはつまり、後世に「今」という時間の姿を伝えるものを残す行為である。
撮られた写真は残り、後世の人が見て、写真のなかにいる人や背景からその時代がどのようなものであったのかを知る。間違いなく記録である。
しかし、立ち止まって考えると、たとえば肖像写真の場合、撮る人、撮られる人は、一体誰に対して残そうとするのだろうか。
子孫に対して残すというのが普通の考えだろうが、顔も知らぬ子孫に対して、先祖である自分の姿を残し伝えたいという欲求は一般的な者が持つ感覚なのだろか。そもそも、自らの姿のみを通じて何を伝えたいか。案外伝えたいもの、伝えられるものは少ないと思う。
顔をはじめ容姿はまぎれもなくその人個人のものだが、それは誰にも言えることであって、「個」であることに特別な意味はないだろう。
たとえば、多くの人が思い浮かべることができる肖像写真に坂本龍馬のそれがあるが、あの坂本龍馬の姿は、たまたまあんな感じであっただけで、もし全く違った容姿であっても、坂本龍馬ととしての存在が揺らぐわけではない。
つまり、先祖が子孫に伝えるという意味において、「個」の姿に特別な意味はない。
もし、先祖が自らの子孫に伝えるべきメッセージを持つとするならば、写真ではなく「言葉」で伝えた方がよほど効果的だろう。
「死んだ爺さんの遺言では…」云々は効果があるように思う。

では、家族写真といった類いの写真についてとなるが、写真を撮ることにどういう意味があるのだろうか。
僕は、「今」を知るため、共有するため、あるいは固定するためにあると思っている。
人は誰も「今」を生きることしかできない。しかし、「今」は瞬時も留まることなく過ぎていき、過去となる。
「今」がどのようなものか知りたいと願っても、その「今」は過去の記憶をたどるしかないのだ。
つまり、「今」とは最高のリアリティーを持つものだけど、これほどあやふやなものもない。
そんなとき、写真は「今」を写してくれる。
たった1回のシャッターで、時間も生きとし生ける者のすべても何もかもを「今」として凍結してくれる。
そして、たった一枚の写真によって、人は、かつての「今」と再会し、その瞬間では感じ得ることができなかった多くの真実について学ぶ。
さらにもしそこに自分以外の人、たとえば家族などが写っていれば、かつての「今」は深みを持ちながら増幅していく。
もし、写真に力があるとすれば、そこにある「かつての今」を見ることで、新たな「今」を作っていこうとする気持ちが芽生えることだろうか。

今回、唐たけし冩場で撮った写真は、フィルム現像からオリジナルプリント制作まで僕がすべて手作業で行うことになっている。撮影したフィルムは50本。数日かけてようやく現像が終わったところだ。
現像済みのフィルムをライトボックスの上の置くと、まるでフィルム自体が発光するかのようになって、そのなかにいる人が立ち上がってくる。皆、あの北側の窓からの光を受けて、とても美しい。

僕もこうして、写真を通じてあのときの「今」と出会い、カメラの前に立ってくれた人たちの気配や佇まいから、それぞれの人たちが今まさに歩んでいる「今」をあてどもなく想像したりする。

ある有名な写真家が言っていた。
「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」

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